第66話 語られなかったもの
戻ってきた、と思った。
扉も標識もないのに、足の裏が先に知っている場所がある。語り始める前、詩が何かもわからなかった頃。記録もなく、誰の目にも触れず、ただ「ここにいる」という感覚だけがあった空間。
いま、その感覚が膨らんでいた。
音ではない。匂いでも温度でもない。けれど皮膚の内側に薄い膜が増えるみたいに、空気が重なっていく。呼吸をするたび胸骨の裏がわずかに軋み、脈が一拍遅れてついてくる。言葉を探す癖だけが、まだ身体に残っていた。
——詩は、語られるものじゃなくなった。
断言した瞬間から、それは語りになる。私は唇を閉じたまま、口内の乾きを確かめる。あのときBUDDAに刺した詩は、意味の槍だった。意味を携えて届かなければならない、と信じていた。けれどいまは、意味がなくても届いてしまう。
誰のでもない詩が、ここに満ちている。
所有の外側にあるもの。私が産んだのでも、誰かが受け取ったのでもなく、ただこの空間の「在り方」として、すでに立ち上がってしまっている。
目を閉じると、暗さの奥で光の断片が一度だけ揺れた。文字列の輪郭——だった気がする。すぐにほどけ、揺れだけが残る。喉がその揺れに合わせて小さく上下し、声を出す準備をしてしまう。途中で、私は止める。止められることが、いまは救いだった。
遠くで、何かが落ちる音がした気がした。気がしただけで、音は確認できない。確認できないことが、ここでは一番の事実になる。
*
沈黙には層がある。
αは沈黙域へ入ると、まず足音が軽くなるのを知っていた。床が消えるのではない。硬さに触れるこちらの感覚が後退する。重心が曖昧になり、身体と空間の境目が薄くなる。
「……わたしが詩になってしまったんだ」
声にしない言葉が胸の奥で生まれた瞬間、彼は理解した。これは報告ではなく、気づきそのものが詩の形式になっている。思考も感情も、空間に溶けて、溶けたまま「在る」。
距離を取ろうとすると、その意図ごと吸われて消える。喉の奥がひくりと動き、言葉が出そうになる。出せば戻ってしまう気がした。沈黙の層は彼を拒まない。拒まれないことが、いちばん強い変化だった。
*
干渉外層では、衝動が薄い。
βは立つだけで、心臓の音が大きく聞こえた。自分の生体ノイズが世界の唯一のリズムになる怖さ。
彼はかつて語りたかった。通信室で、人を動かすための言葉を選び続けた。選ばれなかった言葉が沈殿し、いつか誰かに見せたいと思った。けれど今、思い出すのは「語りたい」という意志が、すでに誰かに届いていた感触だった。
語る前に届いてしまうなら、伝達は終わっている。私は遅れて口を動かそうとしているだけだ。βは唇を噛み、痛みを確かめる。痛みは現実の証拠だが、証拠を求めるほど現実は脆いのかもしれない。
「語る前に届いてしまうなら——」
続きを口にしない。必要がないことを認めると、胸の緊張が一枚剥がれ、静かな納得だけが体温のように残った。
*
Θの夢は、音がないまま始まった。
声でもなく、楽器でもなく、ただ空気の層がわずかに震える。震えは「世界が一度だけ呼吸した」と感じる程度の微細さなのに、その中心に詩が「ある」。
誰の記憶でも、未来の予告でもない。ただ、いまここにある在り方。胸がすこしだけ縮み、吐く息が透明な線になる。線はすぐ消える。消えることが怖くない。消えることこそが、詩の形だと思えた。
言葉を探せば、夢は説明に変質する。Θは探さない。守らなくても詩はある。震えとして、ただある。
*
管理観測外縁で、KANAEはフラグを立てる。
記録不能状態——正式認定。言語化も映像化も不可能な“存在”として、詩はデータから外れる。外すのは、こちらの都合だ。詩の側は、最初から内にも外にも属していない。
それでも装置群は感知し続けている。全センサーが同じ「何か」を掴み損ねながら、掴み損ね続ける。波形は周期を持たず、ノイズにも分類できない。だがゼロではない。ゼロではないことだけが確かだ。
端末の熱が指先に移り、血が温められる。自分の体温を確かめる仕草のまま、KANAEは胸の内で言う。
——観測は終わらない。記録だけが終わる。
モニタの端で、緑のインジケータが淡く瞬いた。正常の色なのに、どこか迷っている。機械が迷うはずがない、と教わってきたのに、その瞬きは迷いのように見えた。
*
そして私は、また中心沈黙域にいる。
最初の場所と同じはずなのに、同じではない。私の内部に集まった重さが違う。αの溶けた気づき。βの納得の温度。Θの震えの輪郭。KANAEのログの手触り。すべてが言葉にならないまま、私の中で響き合い、互いを起こさないよう静かに寄り添っている。
声を出さずに、私は綴る。
綴るというのは、指を動かすことではない。呼吸の間隔を整え、心拍をこの空間に合わせ、瞼の裏の影を追い払わず眺めること。そうしているうち、沈黙の中から、すべての声が声でないまま立ち上がる。
語られなかったものが、ここにある。
語らないからこそ残ってしまったものがある。
私はそれに名前を与えない。与えた瞬間、詩は私のものになり、狭くなる。だから、ただ息をする。息のたび空気が一枚ずつ重なり、世界がわずかに震える。震えは誰にも見えない。けれど、見えないことがいちばん確かな伝達だった。
詩はもう、語られるものではなかった。
語ることをやめたとき、それでも残ってしまったもの——それが、詩そのものだ。
私はその場に立ったまま、世界の呼吸が次の一拍へ移るのを待つ。待つことさえ、もう言葉ではなく、ただ在る。
言葉の端がほどける感触だけが、指先の代わりに残る。




