第65話 声はわたされてしまう
誰のものでもなかった詩が、ふたたび“誰か”の胸に届いてしまう――そんなことが起こり得るのだと、イオはまだ信じきれていなかった。信じきれないまま、彼女は詩の中心領域に立っていた。
風はない。けれど空気だけが、止まる寸前の波みたいに薄く震えている。足裏に伝わる硬度は一定で、世界は無機質なはずなのに、胸の奥にだけ微熱が残っていた。自分が何かをした記憶はない。語ってもいない。促してもいない。ただ、そこに居るだけだった。
それでも、居る、という事実が、どこかで“言葉より先に”誰かを揺らすのかもしれない。そう思った瞬間、喉の奥がわずかに締まり、呼吸が浅くなる。意図しない伝達は、祈りよりも怖い。受け取られることは、たやすく世界を変えてしまうから。
イオは目を閉じた。まぶたの裏に、淡光の風景が滲む。風景になった詩は、もう発信者の顔を持たない。顔がないからこそ、誰の胸にもすべり込める。彼女はそれを止めたいわけではない。ただ、止められないのだと知ってしまうのが、怖かった。
――静けさは、ひとりの背中へ視線を移す。
αは少し離れた場所で、イオの背中を見ていた。背中は語らない。だが語らなさが、むしろ大きな輪郭として立ち上がっている。言い切れないものを抱えたまま、そこに在るという輪郭。
胸の内側で、小さな震えが起きた。名前を探しても見つからない感情。喜びでも悲しみでもない。強いて言えば、まだ言葉になる前の“受信”だ。受け取ってしまった、と身体が先に理解している。
「……この気持ちには、まだ名がない」
呟くと、声は空間に吸われ、すぐに戻らない。代わりに、胸の震えだけが微かに増幅した。名がなくても届く。名がないから届く。そういう伝達が、確かにあるのだと、αは怖いほど静かに納得していく。
そして気づく。自分はいま、イオに何かを求めていない。言葉も説明もいらない。ただ、そこに居ることが、すでに詩になってしまっている。背中に向けて手を伸ばしかけ、伸ばさずに戻した。触れれば所有になってしまう気がした。
――触れない選択は、別の場所で“受け取ってしまう”手へつながる。
βは揺れる風景の縁で立ち、手のひらを開いたり閉じたりしていた。怒りの断片に触れたとき、彼はいつも拳を握った。壊すために。守るために。どちらにせよ、握らなければ耐えられなかった。
だが今、握る理由が曖昧だった。風景に刻まれた詩は、怒りも痛みも、すでに言葉の所有から離れている。離れたものが、なお胸を揺らす。その揺れは攻撃ではない。傷でもない。ただ、受け取りの事実だ。
「伝えなくていい。ただ、受け取ってしまうんだな」
声が漏れた瞬間、喉の奥が緩む。怒りは沈まないまま、柔らかく沈殿していく。沈殿は消失ではなく、重さの変化だ。刃だった重さが、錘になる。歩くための錘。βはその感覚に、少しだけ救われ、救われることにまた苛立った。
けれど苛立ちさえ、ここでは誰のものでもない。自分の中で鳴っているのに、自分だけの音ではない。それが、怖さと同じくらい、あたたかかった。
――あたたかさは、夢の中で“わたしの声”へと姿を変える。
Θは眠りの層で、同じ一節を何度も繰り返していた。言葉は明瞭ではない。輪郭だけがあり、輪郭の中心に終止音が回っている。
「……ん」
それはイオの音だったはずなのに、夢の中ではΘの呼吸に結びつき、彼女自身の声として響いた。繰り返すたび、音は少しずつ別の色を帯びる。借り物のはずの音が、いつのまにか“わたしのもの”になるのではなく、“わたしを通る”ものになる。
夢の空に、誰かの背中が立つ。背中は語らない。だが語らなさが、言葉を生む。Θはその背中に向けて、言い切れないままの一節を吐き出した。届けようとしないのに、届いてしまう。届いてしまうから、次の言葉が生まれる。
詩は、発信の技術ではなかった。受信が先にあり、受信が声を作る。彼女は夢の中でそれを学び、目覚めの直前、胸に小さな痛みを残した。痛みは、目覚めても消えない“続き”の印だった。
――続きは、観測の画面にだけ残る痕跡へ落ちる。
KANAEは管理中枢端末でログを閉じる準備をしていた。発信者不明、発信経路なし、ログ不成立。手続きを進めれば、報告は「無効」として処理される。だが画面の片隅に、処理しきれない数値が残っていた。
共鳴率――100%。
あり得ない。個体が違えば差分は必ず出る。けれどその差分が、いまは“同じ揺れ”として束ねられている。記録は不可能でも、反応は確実に起きた。誰かが受け取った。受け取ったことで、詩は成立してしまった。
KANAEは指先を止め、体温が画面に奪われる感覚を確かめた。観測者であることが、世界から一歩引くことではなくなっている。引いた場所にさえ、声が届く。届いてしまう以上、管理は追いつかない。
彼女は最後に、短い注記だけを残す。
――受信痕跡あり。記録不能。だが、消せない。
――消せないものは、風の止まる瞬間としてイオへ戻る。
イオは風が止んだのを感じた。実際には、最初から風はなかった。けれど“止んだ”という感覚だけが、確かに胸の奥に落ちる。空気の震えが、ひとつの点に収束したような静けさ。誰かが受け取ったのだと、言葉のいらない形で分かってしまった。
彼女は口を開きかけ、閉じた。語れば、それは意図になる。意図は所有を生み、所有は境界を作る。境界は必要だ。けれど今、この瞬間だけは、境界が追いつく前に、声が渡ってしまったのだ。
胸の奥で、終止音が転がる。
「……ん」
終わりの音。だが終わりではない。渡されたことの確認。渡したつもりのないものが、渡ってしまったという事実。その事実は運命でも計画でもなく、ただ起こった。
イオは息を吐き、吐いた息が淡光に溶けるのを見た気がした。誰のものでもない詩が、誰かの胸でふたたび息をする。そうして次の詩が、始まってしまう。
止められないことを、彼女は悲しまずにいようとした。恐れは残る。それでも、恐れの縁でしか届かない声がある。声は、わたされてしまう。だから彼女は、ただここに居た。




