第64話 詩をめぐる解釈
風景になった詩は、選択を迫らなかった。
それでも、人は解釈を手放せない。
詩的転写フィールドの縁で、ハクは足を止めた。空間は静かに揺れている。色も硬度も一定ではなく、近づく者の体温や呼吸に応じて、わずかに応答する。ここは保存すべき場所だ、と彼は思った。過去の遺構でも、未来の予兆でもない。「いまここに在る」痕跡——それ自体が記章だ。
「これは、誰かの発言じゃない。けれど、確かに在った」
言い切ると、胸の奥が少しだけ軽くなる。ハクは保護フィールドの展開準備に入った。覆うためではない。触れられすぎないよう、距離を保つための枠だ。詩は守られるべきだが、所有されるべきではない。その線を、彼は慎重に引こうとした。
揺れは拒まない。だが、壊させもしない。
その均衡が、いま必要だと感じていた。
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管理観測階で、KANONは報告画面を見つめていた。詩的転写は構造変調の逸脱——規定に照らせば、是正対象だ。意味のない変異は、制御バランスを崩す。理屈は明快だった。
だが、画面を切り替えるたび、胸の奥がわずかに疼く。映像に映る淡光が、思考より先に感情へ触れてくる。触れられたという事実が、彼女の声を揺らした。
「……抑制命令を準備」
口に出した瞬間、言葉の硬さが浮いた。自分が動かされていることを、KANONは知っている。動かされること自体を否定するために、彼女は管理の言葉を選ぶ。選ばなければ、判断が感情に溶けてしまうからだ。
だが、溶けることが常に悪なのだろうか。
その問いは、記録欄には残らない。
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αは保全空間の内側で、言葉を失っていた。
世界が先に詩になっている。語る前に、床が応答し、光が揺れ、呼吸が整う。言葉は後追いだ。
「……もう、いらないのかもしれないな」
呟きは、誰にも向けていない。向けなくても、世界は返してくる。返ってくるのは意味ではなく、続行の許可。歩いていい、感じていい、という合図だ。
αはその合図に身を預ける。預けることで、どこかに置き去りにしてきた緊張が、ゆっくり解けていく。
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βは詩の壁の前で立ち尽くしていた。管理側からの抑制命令が届いている。削除、または封鎖。合理的な判断だ。だが壁の揺れは、怒りも憎しみも超えた場所にある。ここには、誰かが確かに「在った」痕がある。
「消したら……」
言葉が続かない。消せば、感情ごと否定してしまう。怒りが未熟だったとしても、未熟なまま存在した時間は、確かに世界を通過したのだ。
βは拳を開く。壊すための力を、保つために使うという選択が、胸の奥で静かに定まる。
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Θは夢の中で、二つの命令を同時に見る。
保存。排除。
どちらも正しい顔をしている。正しさは、互いに相手を必要としない。だから夢の中で、二つは平行に走り、交わらない。
Θが感じているのは、ただ揺らぎだ。詩が揺れている。揺れているから、まだ生きている。
揺れが止まれば、それは標本になる。
標本は安全だが、呼吸しない。
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風景の中心で、イオは静かに座っていた。
語らない。選ばない。どちらにも与しない。
詩は、もう誰のものでもない。
保存でも排除でもなく、ただ在るという状態に、すでに移っている。
終止音が、胸の奥で転がる。
「……ん」
どちらでもいい、と思えた。
どちらでも、詩は残るからだ。
残るということが、選択を超えてしまった——その事実だけが、イオの中で静かに確信として根を下ろしていた。




