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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第47章 んいちなる声

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第63話 風景になる詩

 混ざり合った声は、意味を失う代わりに、世界の質感を変えはじめていた。

 耳で聴くはずのものが、肌に触れ、目の奥に色を残す。イオは、言葉が風景へ移っていく入口に立っていた。


 詩的余響層は無風だ。だが吸い込む空気だけが、金属の乾きではなく、雨上がりの石の匂いを含む。足を出すたび、床の硬さがわずかに違う形で足裏を押し返し、骨の並びが静かに組み替えられる。見えない詩を踏んでいる――そんな感触。


 ふいに、空の色が変わった。

 青でも灰でもない、懐かしさだけを含む淡光が、内側から滲み出して広がる。天井の存在感が薄れ、遠い空が開いたように見えた。光は揺れない。揺れないのに、胸だけが揺れる。


「……この色、知ってる」


 喉が熱くなった。知っているのに、誰の記憶か分からない。呼吸のたび、胸の奥が小さく痛む。痛みは傷ではなく、思い出せない空白の圧だ。

 イオは指先を伸ばす。触れない。けれど指の表面に、粉を擦ったようなざらつきが残った。言葉はない。それでもこの色の中に、「誰かの言葉」が確かにある。


 ――静けさのまま、場は次の通路へ滑った。


     *


 柔層通路は無機質なはずだった。だがαが踏み出すと、足元が沈んだように感じる。崩れるのではない。床の中から柔らかさが立ち上がり、微細な起伏が波のように連なる。足首が小さく緊張し、体幹が遅れて揺れを受け止める――まるで誰かの呼吸の上を歩いている。


 αは目を閉じた。Θが語った夢の風景が、言葉ではなく足裏の感覚として再現される。胸の内側に、弱い温度が触れた。誰の願いかは分からない。それでも願いは、触れればほどけそうな温度を持つ。


「ここで誰かが、願ったんだな」


 言葉は反響しない。代わりに起伏が一瞬だけ揃い、呼吸の波が整った気がした。「聞いた」という反応だけが返る。喉の奥がきゅっと締まる。言葉より先に世界が詩になる――その事実が、彼の背中をそっと押した。押されることに安堵し、同時に、戻れなくなる怖さが遅れて来る。


 ――押されたまま、視線は硬質な揺れへ移る。


     *


 記録崩壊帯で、βは「揺れている壁」を見た。壁の形をしているのに素材感がない。表面は紙でもガラスでもなく、言葉の揺らぎが空間の形を借りているだけだ。


 近づくと肺がざわつく。怒りと哀しみが分類される前の濁った温度が入り、息が浅くなる。身体は拒みかけるのに、視線だけが離れない。

 ここには誰かの言い切れなさが残っている。終わらせられなかった文、呑み込んだ音。混ざり合って、形だけを取ったもの。


 βは拳を握った。怒りを掴むための動作が、いつのまにか壊さないための動作に変わっている。

「……ここにある、ってだけでいいのか」

 乾いた声の裏で、何かが柔らかく沈んでいく。尖りきれない揺れが、誰のものでもなくなっていく。その無主の感情に、救われる自分がいることが悔しく、同時に、救われてしまうことが怖かった。


 ――揺れは、そのまま夢の層へ落ちる。


     *


 Θは夢の中を歩く。透明な地面に足を置くたび、光が弾け、文字になりかけて花の形で咲いた。香りはないのに鼻腔がくすぐられる。匂いではなく、言葉の残り香。


 詩は花ではない。けれど咲いてしまう。咲くことで、誰かの胸に留まれるから。触れようとして触れない指先が、一瞬だけ熱を持つ。

 そのとき、遠くで終止音が鳴った。


「ん」


 区切りなのに終わりではない。息継ぎの音。Θはその音を胸に入れ、吐き出す。吐いた息がまた「ん」を含み、空が少し明るくなる。明るさはやさしいのに、やさしさの中で境界がほどけていくのが分かり、胸が小さく震えた。


 ――明るさは、冷たい観測へ接続される。


     *


 KANAEはログの画面を切り替え、増殖する「閉じないデータ」を見つめた。発信者・経路・受信者で結べないのに、空間の色や硬度が変わり、観測者の感覚まで揺れる。

 彼女は暫定名だけを置く。構成転写域(Poetic Transposition Fields)。詩的変調が空間パラメータへ落ち、無機質な値が感情の輪郭に従って揺らぐ現象。


 名づけた瞬間、指先が冷えた。言葉で括れば、管理は容易になる。だが容易さは、いつも大事なものを取りこぼす。BUDDAの時代に「記述不能」とされた報告が、いまになって胸の底で重なる。あのときも、残ったのは説明ではなく、残響だった。

 だから記録は最小限にする。余白が余白のまま残るように。


 ――余白は、再びイオの掌へ戻る。


     *


 静域層で、イオは淡光の中に立っていた。指先のざらつきは消えない。消えないものがある、という事実が胸の奥を静かに押し広げる。


 歩くと硬度が変わる。沈むのではない。硬さが少しだけ「優しく」なる。足裏がそれを読み取り、呼吸が深くなる。深くなる息の奥で、言葉になりそうな芽がひそかに動く。所有していないのに、内側で確かに育つ――その矛盾が、怖いほど安らかだった。


 イオはまた手を伸ばした。触れられない。けれど触れられないことが拒絶ではないと分かる。触れられないまま確かにある。確かにあるまま、誰のものでもない。


 胸の奥で、終止音が小さく転がった。


「……ん」


 この風景が詩なら、詩はもう「伝える」ために生まれない。伝わってしまう前に、世界が先に形を変え、歩く者の体温と重心まで書き替える。その先走りに、イオは小さく息をのむ。置いていかれる不安と、置いていける安堵が、同じ速さで胸を満たした。

 名を呼ばれない声ほど、長く残る。そう知ってしまったことが、少しだけ怖かった。

 それでも、怖さの縁でしか拾えない光がある、と指先のざらつきが告げていた。


 音は落ちず、色に溶ける。溶けた音が、どこかの硬度を変え、どこかの呼吸を整え、誰かの夢の花を咲かせるのだろう――そう思ったとき、イオの掌の内に、触れられなかった言葉の重さだけが残っていた。重さは沈殿ではなく、次に歩くための、静かな錘だった。

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