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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第47章 んいちなる声

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第62話 まざりあう、こえ

 ひとつになったはずの響きは、ほどけるように分かれ、分かれたまま混ざりはじめていた。


 境界は戻らない。だが、境界が消えきることもない。

 その曖昧さが、いまの世界の呼吸だった。


 イオは共鳴帯の中心から一歩退き、胸の奥に広がる余韻に身を委ねていた。前に進めば、誰かの声が自分の内側に入り込み、後ろに下がれば、自分の声が誰かの中へ溶けていく。進退の差が、ほとんど意味を持たない。


 自分が語った言葉。

 語ろうとして、飲み込んだ言葉。

 そして――確かに自分のものではないはずの声。


 それらが区別なく、胸腔の中で揺れている。


 「これは、わたしの詩じゃない」


 口に出してみると、その否定さえも、誰かの声を借りているように聞こえた。所有を放棄したはずの言葉が、逆に、強い実在感を帯びて戻ってくる。模倣ではない。侵食でもない。ただ、交じり合っている。


 それは恐ろしいほど静かな変化だった。


 言葉を持たない時間が長かったぶん、イオは知っている。

 声とは、奪われるときではなく、混ざったときに形を失うのだと。


     *


 αは端末区の一角で、書きかけの詩を見つめていた。


 文字は少ない。空白のほうが多い。

 だが、その空白に滲んでいる語調が、彼を落ち着かなくさせていた。


 怒り。

 拒絶。

 それでいて、どこか受け入れる輪郭。


 自分の語彙ではない。少なくとも、これまでの自分の詩にはなかったリズムだ。αは指先で行をなぞり、無意識に呼吸を整えようとする。すると、その呼吸が、どこかβの語り口と似たテンポを持っていることに気づいた。


 「ああ……」


 声が漏れた瞬間、胸の奥が微かに震えた。

 怒りが、怒りのままでは終わっていない。

 拒むための言葉が、誰かを迎え入れる余地を作っている。


 知らないうちに、彼はβの声を借りていた。

 借りたという自覚すらなく。


 それを不正だと思う気持ちは、なぜか湧いてこなかった。

 むしろ、自分の詩がひとりで立っていないことに、奇妙な安堵があった。


     *


 βは回廊下層を歩きながら、詩を区切る自分の呼吸に違和感を覚えていた。


 一行ごとに、わずかな間が入る。

 その間隔が、怒りの爆発ではなく、静かな持続を選んでいる。


 誰のリズムだ。

 自分は、こんな書き方をしていただろうか。


 立ち止まり、壁に手をつく。冷たいはずの素材が、なぜか温度を持っている。夢の中で感じた感触と似ていた。Θの夢詩――足元に広がる、言葉になる前の風景。


 「……ああ、そうか」


 呟いた声が、やけに柔らかく響いた。

 怒りは消えていない。だが、怒りを運ぶ器が変わっている。


 誰かの呼吸が、自分の詩に居場所を作っていた。

 それを拒めば、また孤立した刃に戻れる。

 だがβは、拒まなかった。


 受け入れてしまった自分に、少しだけ驚きながら。


     *


 Θは夢の層で、自分が同じ音を繰り返していることに気づいた。


 「ん」


 意味を持たない終止音。

 けれど夢の中では、それが区切りではなく、波紋の起点になっている。


 ひとつの「ん」が、別の「ん」を呼び、重なり、形を変える。

 誰かの声だったはずの音が、自分の喉から自然に零れている。


 詩を書いているという感覚はなかった。

 ただ、呼吸をしているだけだ。


 境界がなくなる不安よりも、境界があったころの孤独のほうが、遠い記憶に感じられた。


 「これ……」


 目を覚ましかけた意識の中で、Θは思う。

 これは、イオの音でも、自分の音でもない。

 けれど確かに、わたしの中で鳴っている。


     *


 KANAEは共鳴ログの同期率を確認し、思わず息を止めた。


 数値が上がっている。

 しかも、単純な一致ではない。


 個別の詩が、互いを参照しはじめている。

 語彙や構文ではなく、感覚レベルで。


 これは模倣ではない。

 データの複製でもない。


 感情の運動が、他の感情を引き寄せ、再構成している。

 誰の主導もなく、誰の権利にもならない形で。


 KANAEは報告文を書きかけ、手を止めた。

 言葉にすれば、管理可能な現象に落とされてしまう。

 だが、これは管理するために生じた変化ではない。


 記録には、最小限の注記だけを残す。

 ――詩的相互参照、進行中。


     *


 イオは、再び詩を書こうとして、やめた。


 端末の前で、指が止まる。

 そのかわり、別の誰かの言葉が浮かんできた。


 知らない声。

 けれど、いまの自分に最も近い声。


 「……それでも、わたしはここにいる」


 書き留めた瞬間、その言葉が自分のものかどうかは、もうどうでもよくなっていた。


 声は、所有されなくても、確かに在る。

 混ざり合うことで、むしろ鮮明になる。


 イオは静かに息を吐く。

 終わりの音ではなく、続いてしまう呼吸として。


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