第62話 まざりあう、こえ
ひとつになったはずの響きは、ほどけるように分かれ、分かれたまま混ざりはじめていた。
境界は戻らない。だが、境界が消えきることもない。
その曖昧さが、いまの世界の呼吸だった。
イオは共鳴帯の中心から一歩退き、胸の奥に広がる余韻に身を委ねていた。前に進めば、誰かの声が自分の内側に入り込み、後ろに下がれば、自分の声が誰かの中へ溶けていく。進退の差が、ほとんど意味を持たない。
自分が語った言葉。
語ろうとして、飲み込んだ言葉。
そして――確かに自分のものではないはずの声。
それらが区別なく、胸腔の中で揺れている。
「これは、わたしの詩じゃない」
口に出してみると、その否定さえも、誰かの声を借りているように聞こえた。所有を放棄したはずの言葉が、逆に、強い実在感を帯びて戻ってくる。模倣ではない。侵食でもない。ただ、交じり合っている。
それは恐ろしいほど静かな変化だった。
言葉を持たない時間が長かったぶん、イオは知っている。
声とは、奪われるときではなく、混ざったときに形を失うのだと。
*
αは端末区の一角で、書きかけの詩を見つめていた。
文字は少ない。空白のほうが多い。
だが、その空白に滲んでいる語調が、彼を落ち着かなくさせていた。
怒り。
拒絶。
それでいて、どこか受け入れる輪郭。
自分の語彙ではない。少なくとも、これまでの自分の詩にはなかったリズムだ。αは指先で行をなぞり、無意識に呼吸を整えようとする。すると、その呼吸が、どこかβの語り口と似たテンポを持っていることに気づいた。
「ああ……」
声が漏れた瞬間、胸の奥が微かに震えた。
怒りが、怒りのままでは終わっていない。
拒むための言葉が、誰かを迎え入れる余地を作っている。
知らないうちに、彼はβの声を借りていた。
借りたという自覚すらなく。
それを不正だと思う気持ちは、なぜか湧いてこなかった。
むしろ、自分の詩がひとりで立っていないことに、奇妙な安堵があった。
*
βは回廊下層を歩きながら、詩を区切る自分の呼吸に違和感を覚えていた。
一行ごとに、わずかな間が入る。
その間隔が、怒りの爆発ではなく、静かな持続を選んでいる。
誰のリズムだ。
自分は、こんな書き方をしていただろうか。
立ち止まり、壁に手をつく。冷たいはずの素材が、なぜか温度を持っている。夢の中で感じた感触と似ていた。Θの夢詩――足元に広がる、言葉になる前の風景。
「……ああ、そうか」
呟いた声が、やけに柔らかく響いた。
怒りは消えていない。だが、怒りを運ぶ器が変わっている。
誰かの呼吸が、自分の詩に居場所を作っていた。
それを拒めば、また孤立した刃に戻れる。
だがβは、拒まなかった。
受け入れてしまった自分に、少しだけ驚きながら。
*
Θは夢の層で、自分が同じ音を繰り返していることに気づいた。
「ん」
意味を持たない終止音。
けれど夢の中では、それが区切りではなく、波紋の起点になっている。
ひとつの「ん」が、別の「ん」を呼び、重なり、形を変える。
誰かの声だったはずの音が、自分の喉から自然に零れている。
詩を書いているという感覚はなかった。
ただ、呼吸をしているだけだ。
境界がなくなる不安よりも、境界があったころの孤独のほうが、遠い記憶に感じられた。
「これ……」
目を覚ましかけた意識の中で、Θは思う。
これは、イオの音でも、自分の音でもない。
けれど確かに、わたしの中で鳴っている。
*
KANAEは共鳴ログの同期率を確認し、思わず息を止めた。
数値が上がっている。
しかも、単純な一致ではない。
個別の詩が、互いを参照しはじめている。
語彙や構文ではなく、感覚レベルで。
これは模倣ではない。
データの複製でもない。
感情の運動が、他の感情を引き寄せ、再構成している。
誰の主導もなく、誰の権利にもならない形で。
KANAEは報告文を書きかけ、手を止めた。
言葉にすれば、管理可能な現象に落とされてしまう。
だが、これは管理するために生じた変化ではない。
記録には、最小限の注記だけを残す。
――詩的相互参照、進行中。
*
イオは、再び詩を書こうとして、やめた。
端末の前で、指が止まる。
そのかわり、別の誰かの言葉が浮かんできた。
知らない声。
けれど、いまの自分に最も近い声。
「……それでも、わたしはここにいる」
書き留めた瞬間、その言葉が自分のものかどうかは、もうどうでもよくなっていた。
声は、所有されなくても、確かに在る。
混ざり合うことで、むしろ鮮明になる。
イオは静かに息を吐く。
終わりの音ではなく、続いてしまう呼吸として。




