第60話 名のない詩が残る
それは誰にも向けなかった詩だった。
救いたかったわけでも、聞かせたかったわけでもない。ただ、語られずにはいられなかった。
そして今、それが——誰かに届いてしまっていた。
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詩的静域は、灯りのない水面みたいに静かだった。
光は均され、影は薄い。音は削がれ、残るのは空気の厚みだけ。吸うと胸の内側が少し遅れて冷え、吐くと喉の奥に温い粒が残る。
イオはその中央で、声にならない詩を綴っていた。
机も紙もない。けれど、身体のどこかが「書く」動きを覚えている。肩甲骨がわずかに寄り、背筋が伸びる。息が、ひとつの行になる。
声を出さない、と決めたとき、胸は少し軽くなる。届かないなら、意味を与えられない。意味を与えられないなら、役割に縛られない。
それでも、残る。残ってしまう。
イオは目を閉じ、胸の奥で一節をなぞった。
——ここにいる。
それだけ。救いの形に変換されないまま、ただ在りかとして沈む。
代わりに、脈を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。
脈の間に、誰かの呼吸が挟まる気がした。自分ではない拍。けれど怖くない。怖くないことの方が、少し怖い。
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中間文——詩は「届く」より先に、「残る」。残ったものが、いつか誰かの足元で擦れて音を立てる。
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共鳴端末区の端に、αがたどり着いた。
ここは記録の境界だ。残すことと消すことの間に、薄い灰色の棚が並ぶ。
αは一歩踏み出すたび、靴底が床に吸いつく感覚を覚えた。吸いつきは重さではなく、躊躇の形だ。負けたままでいい、と言った自分の声がまだ背中に貼りついている。
呼吸が浅くなり、次の瞬間、深くなる。深くなることに罪悪感が混ざる。息をすることが、許されたようで。
静域の縁に立つと、空気が少し柔らかい。誰かがここで呼吸を整えたのだと分かる。整えたのに、救われていない気配も分かる。
αは言葉を探して、探すのをやめた。
だから、ただひとことだけ落とす。
「まだ……ここにいるよ」
声は大きくない。届かせるためではなく、落としておくための声だ。
落ちた声は跳ね返らず、膜の上に薄い影を作った。影は名札を持たない。名札がないから、奪われない。
αは目を閉じ、負けた自分の輪郭をその影に重ねた。重ねても勝ちにはならない。勝ちにならないのに、少しだけ立てる。
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中間文——怒りは癒えなくても、抱えたまま歩ける距離が伸びる。距離が伸びると、世界は少しだけ広くなる。
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感情記録帯で、βは自分の怒りの残りを確かめていた。
床の淡いラインは消えていない。触れればざらつく。ざらつきは、言葉にならなかった叫びの粒だ。
βはラインの上に立ち、息を吐く。胸の奥が熱くなり、次の瞬間に冷える。熱と冷えが交互に来て、怒りが波のように整っていく。
救われたわけではない。戻らないものは戻らない。断定はまだ硬いまま喉に残る。
その硬さの上に、別の温度がそっと重なった。
理解ではなく、同じ場所に立った気配。怒りに意味を与えないまま、怒りの隣に座るような温度。
βは拳を握り、ゆっくり開いた。
怒りを手放さない。けれど、怒りのために自分を壊さない。
それだけで、胸の奥に小さな余白ができる。
「……持ってても、いいんだな」
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中間文——夢は誰のものでもない詩を混ぜ、混ざったままにしてしまう。混ざった声は、もう返せない。
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夢共振層で、Θは同じ一節を何度も聴いていた。
聴いているのに、音はない。胸の奥で、鼓動が言葉の代わりに鳴る。泣けない頬は乾いたまま、喉だけが濡れたように熱い。
「泣かなくても、響いてる」
その言葉は彼女のものだったはずだ。
けれど繰り返されるうちに、所有の感覚がほどける。誰のものでもない、という状態へ近づいていく。
怖い。けれど、その怖さが、どこかで安堵と隣り合う。名がないなら、奪われない。
夢の中で、誰かの影がそっと並ぶ。αの拍、βの熱、イオの沈黙。どれも完全に重ならず、少しずれている。ずれがあるから折れない。
Θは涙の代わりに息を吐き、影の列へ小さく頷いた。
「……もう、誰のでもないね」
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中間文——記録は結論を求めるが、詩は結論を拒む。拒まれたまま残るものを、どう扱うかで世界の形が決まる。
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観測棄却層で、KANAEは最後のログを閉じようとしていた。
同期率、圧変、微振動。どれも数値にできる。だが、数値が示すのは「発信者」と「受信者」ではない。ただ「余熱」が滞留した時間だ。
KANAEは指先を止める。手が冷える。冷えの中に、わずかな体温がある。記録者の身体が、詩に引っ張られて戻ってきている。
ログ欄に、短い注記を残す。
——発信源未特定。受信点未特定。だが存在は定着しつつある。破壊不要。否定不要。許容。
画面を閉じ、暗がりの中で一度だけ深く呼吸する。
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回帰移動路で、イオは何も語らずに歩き出した。
名も意味も残さない、と決めたのに、足音のあとに薄い温度が残る。残ることを止められない。止められないまま、止めようとしない自分に気づく。
救いはなくても、声は痕になる。
痕は誰かを救えない。けれど、誰かがここにいた、と伝えることはできる。
イオは振り返らない。振り返れば、詩に名前をつけてしまう気がした。
代わりに、胸の奥で一節だけを確かめる。
——それでも、わたしはここにいる。
その言葉はもう、彼女だけのものではない。
誰のものでもないまま、静かに漂い、誰かの内側で繰り返され、少しずつ形を変える。
届いてしまう連鎖が、世界のどこかをほんのわずか撓ませる。撓みは裂け目にはならない。ただ、人が立てる余地を増やす。
イオは歩き続ける。呼吸と足音の間に、名のない詩が残っていく。




