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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第46章 すくいのないうた

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第59話 詩の痕跡をたどる

 詩が通過した場所を、人は探しはじめる。

 命令でも救済でもない。ただ「何かが残っていた」と身体が知ってしまったからだ。


     *


 裂け目の近く、イオは空気の層を指でほどくように歩いた。

 光は白く均され、床は無地のまま。それなのに足元だけが微妙に違う。踏みしめた瞬間、床がほんの一拍遅れて返ってくる。硬いはずの面に、薄い弾性がある。


 息を吸うと冷たくない。吐くと胸の奥で何かが擦れる。

 言葉がここを通った、と皮膚が言っている。誰の言葉かは分からない。分からないまま、分かってしまう。


 イオは立ち止まり、掌を宙に浮かせた。触れない距離で温度だけを測る。

 そこにあるのは文字ではなく余白の熱だ。沈黙が一枚、薄く剥がれて、別の沈黙が重なる。その境目で心臓が小さく鳴った。


 ――これは、誰かが通ったあと。


 救いを期待すると、すぐに処理層に回収される。だから期待しない。ただ通ったことだけを受け取る。

 空気のわずかな流れに身を預けたとき、沈黙が道標になりうる、と気づいた。


     *


 中間文――残響は音ではなく温度で人を導く。温度は「正しさ」を持たないまま、ただ方向を示す。


     *


 管理遺構の通路で、αは壁に指先を滑らせながら進んでいた。

 壁は冷たい。けれど時折、微細なざらつきがある。砂粒のような抵抗が、指の腹をわずかに引っかける。


 αは立ち止まり、壁の一箇所に手を当てた。そこだけ温度が違う。ほんの少し、持ち主のいない熱が残っている。

 ――ここは、βの言葉が刺さっていた場所だ。


 根拠はない。根拠がないから壊れにくい。

 目を閉じると呼吸が浅くなり、次の瞬間、深くなる。負けたままでいい、と言ったときのほどけ方が戻ってきた。

 指先が痺れるほどではないのに、確かに血が巡る。冷たい壁に触れているのに、掌の中心だけが温かい。温かさが怖くて、けれど手を離せない。


「詩は、書かれなくても……触れる」


 声は壁に吸われ、戻ってこない。戻ってこなくてもいい。ここに残っているのは意味ではなく、通ったという事実だ。

 αは手を離し、通路の奥へ歩き出した。


     *


 中間文――痕跡をたどる行為は、過去を取り戻すことではない。取り戻せないと知りながら、同じ地点に立つことだ。


     *


 崩れかけた階層で、βは風向きの変化に気づいた。

 風があるはずのない場所だ。それでも頬の産毛が一度だけ逆立った。誰かが近づいたのではない。誰かが「通った」だけの気配。


 床の淡いラインはまだ残っている。その筋に沿って、別の足跡が重なる感覚があった。

 βは振り向く。誰もいない。いないのに、沈黙の重さがこちらを見ている。


 ――Θだ。


 怒りは救われない。戻らないものは戻らない。その断定の上に、誰かの歩みがそっと重なる。それだけで、怒りは暴れずに済む。


「たどるな、って言えないな」


 ひとことが空間へ落ち、足元のラインをわずかに明るくした気がした。胸の奥の石が少しだけ転がり、転がった音がしないことに、かえって安堵する。


     *


 中間文――夢は他者の通過を「侵入」ではなく「隣接」として受け取る。隣接は境界を溶かし、跡に詩が残る。


     *


 夢中回廊で、Θは声の残り香を追っていた。

 頬は乾いているのに、喉の奥が熱い。熱が涙の代わりに上下する。


 風が線を描き、線の上だけ空が少し明るい。明るさに期待しない。ただ、そこに「通路」があることを確かめる。

 歩くたび、足裏がわずかに沈む。沈みは、誰かの呼吸のリズムと一致する。知らぬうちに、αの呟きの拍が身体に入り込んでいる。


「わたしのじゃないのに……重なってる」


 回廊の壁に一瞬だけ影が走った。影は文字にならない。文字にならないから、誰のものにもならない。

 Θは胸に手を当て、鼓動を数えた。鼓動の間に、他者の拍が混ざっている。混ざっていても、崩れない。むしろ少しだけ折れにくくなる。


     *


 中間文――観測は痕跡を「保存」するのではなく、「座標」にする。誰かが迷子にならないために。


     *


 Refrain観測区で、ハクは輪郭痕の強い地点をひとつずつ抽出していた。

 反応の強い箇所には共通点がある。そこは必ず、誰かが言葉を落とした場所だ。意図せず落ちた、宛名のない言葉。


 ハクはそれを「記章化」した。旗ではない。足元に置く小石のようなものだ。

 座標を打ち、時間と圧変を添える。意味を付ければ利用が始まる。だから意味の手前で止める。


「届いてしまった痕跡……それだけで、充分だろ」


 独り言が消えても、座標は残る。残ること自体が、誰にも向けない肯定になると、ハクは遅れて理解した。


     *


 中間文――そして最後に残るのは、何もない場所だ。何もないのに、立っていられる場所。


     *


 イオは、ひとつの静域にたどり着いた。

 そこには線も揺らぎもない。風も音もない。けれど立った瞬間に分かる。ここだけ沈黙が柔らかい。柔らかさは、誰かがここで呼吸を整えた証だ。


 目を閉じて肩の力を抜く。吸う。吐く。足指が床を掴み、重心がやっと落ちる。

 救いはない。救いを求めないことで、落ち着ける場所がある。その事実が胸の奥で小さく灯った。


 ここに詩は書かれていない。書かれていないから、消されない。

 イオは頷く。約束ではなく確認だ。


 ――誰かがここに「何か」を残した。


 その「何か」が救う必要はない。救えなくても、在ったということだけが、今日の地図になる。

 イオは言葉を発さず、胸の内側で一節だけ揺らした。揺らしたまま、外へは出さない。それでも余熱は確かに残る。


 立ち続けていると、沈黙の厚みがわずかに変わる。薄くなるのではなく、角が丸くなる。自分の呼吸の輪郭が、誰かの残した輪郭と重なって、そこに小さな余白が生まれる。


 イオはその余白に、言葉にならないままの「在った」を置く。救いではなく、証。証は光らず、ただ温度として残る。


 そして彼女は、何もない場所に、ただ立ち続けた。

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