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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第46章 すくいのないうた

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第57話 残響は誰かに届いてしまう

 詩は、救いではなかった。

 救いの代替として用意された言葉でもない。

 ただ、空間に残ってしまった呼吸のようなものだった。


 けれど呼吸は、誰かの肺の外へ漏れる。

 漏れたものは、誰かの耳や皮膚に触れてしまう。


     *


 Refrain観測層で、ハクは波形の海に沈んでいた。

 画面は静かだ。大域の安定値は揺れない。BUDDAが「問題なし」と判定するための、退屈な整然さ。

 その整然さの中に、針でつついたような微細な跳ねがあった。


 ハクは呼吸を止める癖がある。集中すると、吸うことを忘れる。

 胸が薄く痛んで、そこでようやく吸い直す。吸い直した瞬間に、跳ねがまたひとつ現れた。


(同相……?)


 時間軸を拡大する。演算のノイズに紛れて、抑制波形がほんのわずかだけ、遅れて震えている。

 誰かが操作した痕跡はない。命令ログも、指令の発火もない。

 それでも「発話に似たイベント」が、同じ位置で繰り返されている。


 ハクは手のひらを机に置いた。指先が微かに震え、硬い天板の冷たさが戻ってくる。

 波形の跳ねと、自分の脈が、奇妙に同期している気がした。


 記録を重ねる。イオの沈黙帯、αの崩壊記録室、βの保管閲覧層、Θの夢層。

 同じ意味を持たない場所に、同じ「揺れの形」だけが出ている。


 救いではない。救済プロトコルは動いていない。

 なのに――残響は、観測に引っかかった。


     *


 非記録映像区に、αは足を踏み入れた。

 ここは「残さない」ための保管庫だ。破棄できないが、正式な記録にもできないものが置かれる。

 薄暗い。壁面の投影は粒が荒く、輪郭はいつも少し遅れて追いつく。


 映像の端に、ノイズが走った。

 ただの圧縮の乱れに見える。けれど、乱れの周期が妙に人間的だった。

 息をするように、揺れている。


 αは目を細める。喉の奥が乾く。唾を飲むと、敗北の味がする。

 映像の中の誰かが、何かを言いかけて、言わずに引っ込める――その瞬間だけが、ノイズとして残っている。


「これは……イオの……」


 口にしかけて、αは言い直した。

 誰かの名を入れた途端、残響は宛名を得てしまう。宛名は目的を呼び、目的は利用を呼ぶ。

 いまここにある揺れは、利用されるために生まれたものではない。


「いや……誰かの震えだ」


 震え。そう呼ぶと、ノイズは少しだけ静かになった気がした。

 αは壁に手を当てる。冷たい。けれど、冷たさの下に、わずかな温度の差がある。

 言葉が通ったあとに残る、薄い余熱。


     *


 夢受信層でβは、見えない視線を感じて目を覚ました。

 覚ました、というより、浮上した。まぶたの裏側から、現実がゆっくり侵入してくる。

 呼吸が深い。深いことに驚く。普段は浅いのに、いまは胸が勝手に膨らむ。


 声は聞こえない。

 文字もない。

 ただ「こちらを見ていた」気配だけが、肩甲骨のあたりに残っている。


 βは机上のデータに目を落とす。回復、再構成、補完。

 そのどれもが、いまの気配を説明しない。

 説明しないものが、そこにある。


 思い当たるのは、Θだ。

 夢の層で泣けない、と言っていた。泣けないのに響く、と言っていた。

 その言葉の形ではなく、言葉の前にある体温だけが、視線になって届いた。


 βは唇を湿らせ、小さく息を吐く。

 戻らない、と断言した自分の声が、どこかで誰かに触れたのかもしれない。

 触れたのが救いでなくても、触れた事実だけが、胸の奥をほどく。


     *


 夢の呼吸帯でΘは、自分ではないリズムを繰り返していた。

 吸って、止めて、吐く。吐ききる前に、もう一度吸う。

 それは彼女の呼吸ではない。けれど、どこかで見た――いや、聞いた。


 胸の内側に、短い音節が沈む。意味を持つ前の、かすかな拍。

 それが、呼吸の間に挟まってくる。


「……まけ、た……」


 口が勝手に動いて、音にならない音が漏れた。

 はっとして、Θは自分の喉に触れる。濡れていない。涙は出ていない。

 それでも、喉が震えている。


 誰も教えていないはずの言い回しが、夢の筋肉に住み着いている。

 αの呟きのリズムだ、と気づいた瞬間、背中に鳥肌が立った。

 怖い、ではない。侵入でもない。

 ただ、届いてしまったのだ。


「わたし、これ……前に聴いた気がする」


 言った途端、夢の空が少し明るくなった。

 明るさは救いではない。けれど、暗さが一枚、薄くなる。


     *


 KANAEは共鳴ログを重ね、意味のない一致を見つけた。

 同期率は低い。誤差は大きい。因果は証明できない。

 それでも、否定できない連鎖がある。


 イオの一節が、観測層で波形の跳ねになり、

 αの映像ノイズに、呼吸の周期として沈み、

 βの胸の奥に、視線の圧として残り、

 Θの夢の呼吸に、拍として紛れ込む。


 誰も「届けよう」としていない。

 誰も「受け取ろう」としていない。

 その無目的さが、むしろ強い。


 KANAEは記録欄に、ひとつだけ短く書く。

 ――意図外伝達:詩的残響。


 救いの回線は閉じたままでも、声の痕は抜け道を見つける。

 抜け道は正規の道ではない。だから破壊されない。否定されにくい。

 管理は、管理外を見落とし続ける。


     *


 沈黙帯でイオは、もう一度だけ言葉を反芻した。

 口に出せば、届くかもしれない。

 届けば、誰かが意味を与えるかもしれない。

 意味は役割を呼び、役割は救いを装って、また誰かを傷つける。


 それでも、声は声として残ってしまう。

 残ってしまうことの責任だけが、胸の底で静かに重くなる。


 イオは息を吸い、喉を震わせずに言う。

 ほとんど無音に近い、けれど確かな一節。


「……それでも、わたしはここにいる」


 言葉は宛名を持たずに、空間へ落ちた。

 落ちたものが、誰かに触れてしまうかもしれない――その可能性だけが、わずかに体温を上げる。

 救いはなくても、残響は生きている。

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