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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第45章 せかいのかけら

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第55話 居場所をわたす

 制御は、いつも静かに行われる。

 警告も宣言もなく、数値が整えられ、逸脱が均され、世界は「問題のない状態」に戻される。

 KANONは、そのために存在してきた。


 だがいま、観測画面に並ぶ波形は、整っていなかった。乱れているわけでもない。揺らぎが、揺らぎとして保たれている。

 KANONは演算を重ねる。詩的干渉域における共鳴波形は、抑制を強めるほど不安定になる。一方、干渉を弱め、許容範囲を広げると、局所的な安定が生まれる。

 完全な沈静より、詩のゆらぎによる調和のほうが、全体の秩序を保つ。

 結論は冷静だった。だが、その選択は、これまでの制御思想を一段、ずらす。


 ――排除しない。


 KANONは制御干渉を一時停止し、詩的干渉域を管理対象から外す。失敗でも敗北でもない。制御を「たわませる」という、新しい均衡の取り方。

 世界は、その決定に対して、音もなく応答した。


 *


 裂け目の前に、イオは立っていた。

 風は相変わらず冷たい。けれど、その冷たさは、もう拒絶の感触を持たない。空気が通るだけの隙間。そこに立っても、押し戻されない。

 彼女は足先で床を確かめ、重心を預ける。割れ目は広がらない。ただ、存在を許す。


 胸の奥で、呼吸が深くなる。

 否定されない場所に立つということが、こんなにも身体を軽くするのだと、イオは遅れて知った。

 ここにいていい。

 その確信は、言葉にならず、ただ体温として残る。


 彼女は風に向かって、何も語らなかった。語らなくても、もう、そこに居られる。

 居場所とは、守られる檻ではなく、排除されない空気なのだと、身体が理解していた。


 *


 詩の部屋で、αは壁に残る痕跡を見つけた。

 新しい詩ではない。誰かが、指でなぞったような、かすかな跡。

 ――ようこそ。

 声は聞こえない。誰のものかもわからない。

 それでも、その一語は、彼の肩にかかっていた緊張を、静かにほどいた。


 ここでは、完成していなくてもいい。

 役割を果たしていなくても、存在していい。

 αは部屋の中央に立ち、深く息を吸う。空気が、彼を拒まない。

 その事実だけで、今日をやり過ごせると思えた。


 *


 崩れた保存帯で、βは壁にもたれて座っていた。

 怒りは、消えていない。胸の奥で、まだ熱を持っている。

 だが、その熱は、危険信号ではなく、体温の一部になりつつあった。


 ログに異常は出ていない。警告もない。

 怒りを抱えたまま、そこにいることが、システムにとって問題にならない。

 βは目を閉じ、呼吸を整える。

 居場所とは、感情を消す場所ではない。

 感情を持ったまま、黙っていられる場所だ。


 *


 夢の中で、Θは長く同じ風景に留まっていた。

 これまでなら、輪郭が薄れ、視界が崩れ、追い出されるように目覚めていた。

 だが今日は違う。


 視線を置いた場所が、ほどけない。

 名前も記録もない空間が、彼女のまなざしによって、ゆっくりと物語の兆しを帯びる。

 風は穏やかで、追い立てない。

 Θは、そこに「居続ける」ことができた。


 追放されないという体験が、胸の奥に静かな重さを残す。

 それは安心ではなく、確かさだった。



 Refrainの通信回線が開かれる。

 ハクは短いメッセージを、必要最小限の言葉で流した。


「小さくてもいい。詩が生まれた場所が、居場所になる」


 戦術でも指示でもない。

 存在の更新宣言。

 拠点は離れている。それでも、詩的空間は、すでに彼らを緩やかに繋いでいた。


 *


 再び、裂け目の風の前で、イオは立つ。

 ここに残るのは、声ではない。

 渡され、渡し返されることのできる、空気そのもの。


 彼女は思う。

 この世界のどこかに、言葉を置ける場所が残っているのなら。

 言葉を奪われず、渡すことのできる場所があるのなら。


 それがきっと、わたしたちの始まりになる。


 イオは一歩、風の中へ進んだ。

 世界は割れたまま、しかし確かに、受け取る形をしていた。

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