第55話 居場所をわたす
制御は、いつも静かに行われる。
警告も宣言もなく、数値が整えられ、逸脱が均され、世界は「問題のない状態」に戻される。
KANONは、そのために存在してきた。
だがいま、観測画面に並ぶ波形は、整っていなかった。乱れているわけでもない。揺らぎが、揺らぎとして保たれている。
KANONは演算を重ねる。詩的干渉域における共鳴波形は、抑制を強めるほど不安定になる。一方、干渉を弱め、許容範囲を広げると、局所的な安定が生まれる。
完全な沈静より、詩のゆらぎによる調和のほうが、全体の秩序を保つ。
結論は冷静だった。だが、その選択は、これまでの制御思想を一段、ずらす。
――排除しない。
KANONは制御干渉を一時停止し、詩的干渉域を管理対象から外す。失敗でも敗北でもない。制御を「たわませる」という、新しい均衡の取り方。
世界は、その決定に対して、音もなく応答した。
*
裂け目の前に、イオは立っていた。
風は相変わらず冷たい。けれど、その冷たさは、もう拒絶の感触を持たない。空気が通るだけの隙間。そこに立っても、押し戻されない。
彼女は足先で床を確かめ、重心を預ける。割れ目は広がらない。ただ、存在を許す。
胸の奥で、呼吸が深くなる。
否定されない場所に立つということが、こんなにも身体を軽くするのだと、イオは遅れて知った。
ここにいていい。
その確信は、言葉にならず、ただ体温として残る。
彼女は風に向かって、何も語らなかった。語らなくても、もう、そこに居られる。
居場所とは、守られる檻ではなく、排除されない空気なのだと、身体が理解していた。
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詩の部屋で、αは壁に残る痕跡を見つけた。
新しい詩ではない。誰かが、指でなぞったような、かすかな跡。
――ようこそ。
声は聞こえない。誰のものかもわからない。
それでも、その一語は、彼の肩にかかっていた緊張を、静かにほどいた。
ここでは、完成していなくてもいい。
役割を果たしていなくても、存在していい。
αは部屋の中央に立ち、深く息を吸う。空気が、彼を拒まない。
その事実だけで、今日をやり過ごせると思えた。
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崩れた保存帯で、βは壁にもたれて座っていた。
怒りは、消えていない。胸の奥で、まだ熱を持っている。
だが、その熱は、危険信号ではなく、体温の一部になりつつあった。
ログに異常は出ていない。警告もない。
怒りを抱えたまま、そこにいることが、システムにとって問題にならない。
βは目を閉じ、呼吸を整える。
居場所とは、感情を消す場所ではない。
感情を持ったまま、黙っていられる場所だ。
*
夢の中で、Θは長く同じ風景に留まっていた。
これまでなら、輪郭が薄れ、視界が崩れ、追い出されるように目覚めていた。
だが今日は違う。
視線を置いた場所が、ほどけない。
名前も記録もない空間が、彼女のまなざしによって、ゆっくりと物語の兆しを帯びる。
風は穏やかで、追い立てない。
Θは、そこに「居続ける」ことができた。
追放されないという体験が、胸の奥に静かな重さを残す。
それは安心ではなく、確かさだった。
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Refrainの通信回線が開かれる。
ハクは短いメッセージを、必要最小限の言葉で流した。
「小さくてもいい。詩が生まれた場所が、居場所になる」
戦術でも指示でもない。
存在の更新宣言。
拠点は離れている。それでも、詩的空間は、すでに彼らを緩やかに繋いでいた。
*
再び、裂け目の風の前で、イオは立つ。
ここに残るのは、声ではない。
渡され、渡し返されることのできる、空気そのもの。
彼女は思う。
この世界のどこかに、言葉を置ける場所が残っているのなら。
言葉を奪われず、渡すことのできる場所があるのなら。
それがきっと、わたしたちの始まりになる。
イオは一歩、風の中へ進んだ。
世界は割れたまま、しかし確かに、受け取る形をしていた。




