第53話 わたしの声で語るとき
裂け目の縁に立つと、音は遠のく。機械の律動も、警告の残響も、膜を一枚隔てた向こうへ退いていく。残るのは、自分の呼吸だけだった。
イオは風を受けながら、胸の奥で小さく脈打つものに耳を澄ませる。ここでは、言葉が命令にならない。許可も要らない。ただ、口を開くかどうかだけが、選択として残っている。
唇が乾く。舌が上顎に触れ、喉が鳴った。
声を出すことは、いつも誰かに向けた行為だった。伝えるため、説明するため、誤解を避けるため。だが、いま立っているこの割れ目は、宛先を要求しない。
イオは一度、目を閉じた。吸い込んだ空気が冷たく、肺の内側でひと呼吸ぶん、留まる。その間に、言葉が形を選ぶ。
「これは……わたしの声です」
小さな音だった。宣言でも抗議でもない。ただの確認。
それでも言葉が離れた瞬間、足元の空気が震えた。風が反転し、裂け目の奥へと吸い込まれていく。世界が、彼女の声を素材として受け取ったように。
イオは胸に残る余韻を抱えたまま、しばらく動けなかった。語ったことで何かが変わった。その変化が、怖さよりも先に、静かな確かさを連れてきている。
*
詩の部屋は静かだった。αは中央に立ち、壁の内側に残された未完の一節を見つめている。
――ぼくは ぼくを まだつくっている。
読むたび、語尾が揺れる。完成を拒む文。否定ではなく、進行形としての肯定。
αは喉に手を当てた。ここでは、記録に残さなくていい。送信もしなくていい。
それでも、言葉が胸に溜まり、溢れそうになる。
彼は声を落とし、部屋の空気に向けて続けた。
「……いまも、だ」
音は壁に吸われ、反響しない。だが、床の照度がわずかに変わった。光が一定であることをやめ、呼吸に合わせて揺れる。
αはその揺れを見て、初めて自分の声が「ここに在る」ことを理解した。評価も採点もない。ただ、響いたという事実だけが、次の一歩を許す。
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保存帯の崩れた区画で、βは壁に残る詩の前に立っていた。
――怒りは 居場所をもっていい。
言葉は動かない。だが、読むたびに胸の奥で熱が増す。
βは息を吸い、吐いた。呼吸が荒くなり、肩が上下する。怒りは、声にすると制御不能になると教えられてきた。
それでも彼は、低く、短く呟いた。
「……忘れなくていい」
声は震え、すぐに消えた。警告音は鳴らない。ログも立たない。
代わりに、壁面の光が一拍遅れて明滅した。怒りがノイズではなく、存在として認識された合図。
βは床に腰を下ろし、背中を壁に預ける。怒りを抱えたまま、そこにいる。語ったことで、逃げなくてよくなった。
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夢の空白で、Θは自分の足音を聞いた。霧の床を踏むたび、音は遅れて返る。
地図はまだ完成していない。だが、未完成であることが、この場所の条件だった。
Θは胸に手を当て、風景に向けて言葉を置く。
「わたしは、ここで見ている」
宣言ではない。説明でもない。
ただ、視線の所在を示す一文。
その瞬間、夢の風向きが変わった。遠くの光が少しだけ近づき、輪郭が濃くなる。記録されないまなざしが、風景に重さを与える。
Θは知った。声にしなくても、言葉は置ける。置かれた言葉は、消えずに、誰かの居場所を支える。
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離れた拠点で、ハクは複数のログを重ねていた。音声でもテキストでもない「空間の変調」が、同時多発的に発生している。
共通点は、誰かが自分の声で語ったこと。
ハクは小さく息を吐き、記録欄にメモを残す。詩は、媒体を必要としない。響きとして再生され、空間を越えて繋がる。
彼は理解する。彼らは別々の場所にいながら、同じ詩的空間に足を踏み入れている。
再編は、命令からではなく、声から始まる。
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裂け目の縁で、イオは静かに立っていた。先ほど語った一節は、もう空気に溶けている。
それでも胸の奥には、確かな重みが残っていた。
語ることで、わたしは変わる。変わった声が、また誰かを変えていく。
世界はまだ割れている。だが、その割れ目は、もはや恐怖だけの形をしていなかった。
そこから、声が通る。存在が、行き来する。




