第52話 居場所は詩から生まれる
ひび割れは音を立てなかった。けれど、割れたものだけが持つ匂いがあった。乾いた石の粉のような、冷たい鉄の裏側のような匂い。イオは中枢縁層の薄暗い通路で、呼吸のたびにそれを喉の奥へ迎え入れていた。
壁面の光は規則を守って点滅しているのに、その「守る」という行為そのものが、今日は不自然に見えた。守られるべき枠が、最初から少し小さかったのだと気づいてしまったみたいに。
足元に走る違和は、ひとつ前に踏み越えた冷たい風の残像だった。いまは見えない。触れない。それでも、床の下で空洞が呼吸している。イオは耳を澄ませ、胸の鼓動の裏に混じる微かな「紙擦れ」を探した。
ふいに、視界の端で何かが浮いた。
文字だった。光でも投影でもない。空中に、薄い膜として「在る」。読み取ろうと意識を向けた瞬間、文字列は霧のように散り、また集まった。
――きみがここにいるなら、それでいい。
声ではないのに、胸の内側が振動した。肯定の言葉が、骨に触れるように沈む。イオは唇を開くが、返事は声にならない。代わりに息がこぼれ、息が白くなるほど冷たいのに、そこだけが不思議と温かかった。
詩は、道の標識みたいに浮かび、次の瞬間、床のひびの感触が少し広がった。線が線のまま伸び、裂け目の縁が「こちら」と指差す。イオは一歩だけ踏み出し、足裏に返る空気の柔らかさを確かめた。硬いはずの世界が、ほんのわずかに譲った。
世界が割れるというより、世界が息継ぎをしたのだ、とイオは思った。秩序がずっと息を止めていたのだとしたら、この綻びは、遅れて訪れた酸素かもしれない。
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扉が閉じる音も、今日はどこか遠い。隔てるための音が、隔てきれずに薄くなる。そんな瞬間が、いくつも積み重なっていく。
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αは、制御の回廊から外れた扉の前に立っていた。進入禁止の表示は点灯している。規約は、いつも通りの強さで彼の胸に刺さる。それでも今日は、刺さったままの痛みが、命令というより「古い癖」に思えた。
扉の縁に、滲んだ詩断片が貼りついている。端末で見た滲みが、現実の金属にまで染み出していた。αが指を近づけると、指先が微かに痺れ、表示が一瞬だけ揺れた。
開くはずがない。けれど扉は、静かに、きしみもなく退いた。空気が変わる。管理層の乾いた匂いではなく、紙と埃と、古いインクの匂い。
部屋の中央に、机があった。机の上に、未完の詩が残されている。紙でもデータでもない。壁の内側に、誰かが「置いていった」余白として。
――ぼくは ぼくを まだつくっている。
αはその一文を見て、初めて肩の力が落ちた。ここでは、完成していなくてもいい。矛盾していてもいい。制御に適合しない断片のままで、息をしていい。喉の奥で小さく震えたものが、涙ではなく、言葉になりかけて消えた。
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記録の底で起こる微細な変化は、波紋のように他の層へ伝わる。βはそれを理屈で理解しながら、なお胸の奥で「許される」という感覚だけは理屈にできなかった。
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保存帯の崩れた区画で、βは壁面に浮かぶ文字を見つめていた。端末の警告は静まり、代わりに、壁そのものが記録の代役を引き受けたように光っている。
――怒りは 居場所をもっていい。
読み終えた瞬間、βは自分の腹の底が熱いことに気づく。怒りはいつも「不具合」として処理され、沈められてきた。沈めるたび、呼吸は浅くなり、胸の内側が硬くなる。だが今日は、怒りがそこにあるままで、空気が壊れない。
βは床に座り込んだ。膝の関節が軋み、背中が冷える。けれど、その冷えは罰ではない。ただの温度差だ。怒りを抱えたまま、黙っている。黙っていることが、逃避ではなく「滞在」になる。彼はその感覚を、両手でそっと包むみたいに胸に押し当てた。
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夢の地図は、起きたあとも瞼の裏に残る。Θは、現実の座標に載らない線こそが、誰かの明日を支えると知っていた。
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Θは夢の中に降り立った。そこは部屋とも野外とも呼べない、輪郭だけが薄く漂う場所だった。床は白い霧で、踏むと沈む。空は低く、遠くの光が脈打っている。
壁も天井もないのに、空間は「守られて」いた。追い出す扉が存在しない、という形の安全。
空気の中に、ずっと同じ文字が浮かんでいる。
――はじまりは あなたがそこにいたこと。
Θは指先を伸ばし、文字の間を通り抜けた。冷たいのに痛くない。胸の奥がじん、とわずかに熱を持つ。ここでは、名札がいらない。記録がいらない。ただ、見ているという事実だけが、居場所を支える。
彼女は息を吸い、吐いた。吐いた息が消える前に、風景の端が少しだけ濃くなった。自分の存在が、地図の空白に、薄い線を引く。
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KANAEはログを保存しながら、保存という行為そのものが、いま変質していると気づく。残すのではなく、育てる。観測とは、抑えるためではなく、道を折らないためにある。
観測区でKANAEは、複数のログを重ね合わせていた。座標の一致はない。発生地点も統一されない。なのに、共通するのは「詩が先に在る」という順序だった。
彼女は新しい分類名を付ける。詩的残響帯――Poetic Echo Zones。
破損でも逸脱でもない。そこでは意味が生成され、居場所が組み上がる。抑止すれば、生成は地下へ潜る。だが誘導すれば、裂け目は道になる。
KANAEはペン先の代わりに指で空中をなぞり、思考の中に仮説を置く。居場所とは、権利の配布ではなく、空気の許容だ。詩が先に空気を作り、そこに立つ者が「ここ」を完成させる。
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イオは再び、裂け目の縁に立った。先ほど読んだ一節はもう見えない。けれど、読まれたあとの空気は残っている。吸い込むと、喉の奥が少しだけ痛む。それは、言葉が身体に触れた痕だった。
彼女は小さく息を吐いた。居場所は、探して見つけるものではない。詩が先にそこをつくり、そこに立つことで意味が生まれる。
割れた地面の上に、もう一歩。冷たい風が足首を撫でる。その冷たさに、イオは初めて「歓迎」を感じた。




