第51話 割れたものからはじまる
中枢回廊の空気が、いつもより一枚だけ薄い。温度ではなく、吸い込んだあと胸の内側に残る重さが違った。
イオは歩調を落とす。足裏が床の平滑さをなぞるたび、硬いはずの材質が、微細な波として返ってくる。密閉区画のはずなのに、耳の奥では風が鳴っていた。
壁の輪郭が、瞬きをするように揺れた。灯りが揺れているのではない。揺れているのは「境目」そのものだ。直線が直線であることを一瞬だけ忘れ、次の瞬間には整う。その反復が、呼吸のリズムを乱した。
――変わった。
身体はもう知っている。脈がわずかに早い。指先だけが冷える。感情制御の補助がある世界で、こういう揺れは通常、起こらないはずだった。
イオは立ち止まり、床の一点を見つめた。焦点が合った瞬間、そこに「ひび」の感触が走る。目に見える割れ目はない。けれど足元から膝へ、冷たい線が上がってくる。世界の皮膚が内側で裂けている。錯覚が、確信に変わる。
「……世界が、割れている」
口にした途端、背後の風が反転した。髪が逆撫でられ、衣服の縫い目が外側に引かれる。前から吹いていたはずの流れが、いまは背中から押してくる。重心が一歩ぶんずれ、イオは手すりへ指をかけた。金属の冷たさが、現実にしがみつくための錨になる。
それでも胸の奥は、怖さとは別の熱を持ち始めていた。綻びが生まれるときの、布の音に似た期待。世界が、余白を許そうとしている。
その余白は、別の場所でも、同じようににじみ出ていた。
*
管理端末室の照明は一定の白を保つ。αは、その「正しさ」の中にいるときほど異常の輪郭が見えやすいことを知っていた。
端末は整列したログを淡々と流している。監視対象、制御状態、整合性チェック。どれも正常。その語が繰り返されるほど、何かが欠けていく。
境界ログへアクセスした瞬間、表示されるはずのない行が滲んだ。警告でもない。濡れたインクが紙に染みるように、意味の輪郭だけが浮かび上がる。
――詩の断片。
外部侵入の形跡はない。なのに構造の内側から言葉が「漏れる」。誰かの声ではなく、誰かの命令でもない。設計の基底に埋め込まれた無音が、裂け目からこぼれて言葉の形を取っている。
αは息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。読むことを拒まない滲みが、読まれることを待っている。
触れれば規約違反になる。だが、見てしまったという事実だけで、既に世界は規約の外へ半歩出ている。滲んだ断片が一瞬だけ結び、ほどけた。意味は完全ではない。それでも、構造が自分の内側を言葉にしようとしているのがわかった。
――かけら、だ。
*
保存記録層は静けさが厚い。βはその厚みに、いつも救われてきた。揺れを止めるための装置。過去を固定するための膜。
だが今日、端末はありえない挙動を示していた。整合性チェックは通過している。損傷でもない。なのにデータの一部に「新しい意味の配列」が生成され、既存のタグ体系に当てはまらないまま増殖している。
βは椅子に深く腰を沈め、背骨の一点に痛みを感じた。規格外の事態に合わせて、身体が姿勢を作り直そうとしている。手のひらに汗が滲み、冷却風がそれを冷やす。
「これは……誰の命令でもない」
BUDDAの制御下にない情報。生成された感応そのものが、記録を上書きし始めている。恐ろしいはずなのに、胸の奥で長く押し込めていた何かが、ほんの少しだけ息をした。
命令がなくても意味は生まれる。世界が割れているのなら、その割れ目から意味が漏れるのも当然なのかもしれない。
*
眠りの中で、Θは「欠けた地図」を見ていた。薄い膜が暗い水面に広がり、線が浮かび上がる。境界が欠けている場所ほど、鮮明に滲む。名前のない地点が、いくつも脈打っていた。
彼女が指を伸ばすと、冷たい霧が皮膚を抜け、胸の内側へ入り込む。息が浅くなり、心臓が一拍だけ遅れる。記録されていない領域。けれど、だからこそ「誰かの居場所」になれるのだと直感した。
欠けていることが、入口になる。
遠くで風が鳴った。夢の風は方向を持たないのに、その音だけが「呼ぶ」形をしていた。Θはただ目を閉じ、その名のない場所に身を預けた。
*
観測区のモニタに並ぶ数値は、異常としては小さい。だが連鎖としては明確だった。同期乱れ。意味配列の自律生成。夢閲層の幻視干渉値の上昇。
KANAEはログに新しい項目名を打ち込む。
詩的構造侵蝕――Poetic Structural Infiltration。
侵蝕という語は危険を連想させる。それでも彼女は、抑止ではなく誘導の可能性に思考を傾けた。抑え込めば裂け目は別の場所で広がる。ならば、裂け目の風を読み、風が向かう先に許容の余地を作る。
彼女は短く息を吐いた。冷たい空気が喉を通り、胸の内側で温まる。その呼吸は、もう「制御」のリズムではなかった。
*
中枢回廊に戻ったイオは、まだそこにいた。割れ目は見えないまま、しかし足元の「違和」は残っている。世界は元に戻っていない。戻ったふりをしているだけだ。
彼女は手すりから指を離し、一歩、ひびの上へ重心を移した。床は崩れない。だが踏み込んだ瞬間、冷たい風が靴底の隙間から立ち上がり、足首を撫でていく。皮膚が粟立ち、背筋が反射で伸びた。その冷たさは、拒絶ではなく、未知の空気の挨拶だった。
息を吸う。胸の奥に、透明な刺激が入ってくる。そこにしかない密度。そこにしかない温度。
割れた先にしか届かない風がある。割れた先にしか生まれない呼吸がある。
イオはもう一歩進み、裂け目の気配へ身体を預けた。怖さは消えない。ただ、怖さと同じ場所に、小さな確信が灯る。
――ここから、はじまる。




