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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第44章 もとめることば

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第48話 ことばの前に吹く風

 イオは声を出していなかった。

 けれど、自分の周囲の空気が、以前とは違う手触りになっていることだけはわかった。


 詩中枢静域の外縁、廊下と廊下が薄く重なる接合部。照明は低く、影だけが床面に淡く溜まっている。湿度は一定なのに、皮膚の表面だけが乾いていくような感覚があった。呼吸を吸うたび、肺の内側で微細な摩擦が起こる。空気が、わずかに抵抗している。

 イオは足を止め、壁に指先を触れた。冷えた素材の温度が血管を遡り、胸へ届く。その瞬間、胸の奥に宿っていた「ことば以前の震え」が、薄い風として立ち上がった気がした。


 風——そう呼ぶしかない。

 音はない。けれど、まぶたの裏側で空間の密度が一枚、剥がれる。世界の輪郭が、少しだけ柔らかくなる。イオは変化を追いかけず、ただ身体の中心へ戻っていく。脈拍は平常に近いのに、心臓の周囲だけが熱い。熱は言葉にならず、外側へ滲む。


 廊下の先で、表示灯が一度だけ瞬いた。誤作動とも、反射とも区別がつかない程度の揺れ。けれどその揺れが、彼女の内側の震えと同じ周期で触れ合った気がした。イオは、世界のほうが先に「受け取ってしまう」ことを知る。彼女が何も言わなくても、彼女がここに在るだけで、空間は反応する。


 彼女は歩き出した。

 歩幅は小さく、床へ重心を預けるたび、内部の震えが空気へ移る。振動は消えず、薄く延びて曲がり角に溜まる。誰もいないはずの空間が、誰かの気配で満ちるように感じられた。


     *


 石造区の端部で、αは作業を終えていた。

 石片に刻んだ線はもう増えない。彼は膝を抱え、石の前に座る。冷たい地面が衣服越しに伝わり、腰骨のあたりがじわりと痺れる。指先には刻むときの痛みが残り、乾いた裂け目に砂が入り込んでいた。


 その痛みを、彼は嫌わなかった。

 痛みは「ここにいる」ことの証拠だったからだ。


 ふいに、うなじが粟立った。誰かに見られている——そんな古い感覚が皮膚の上を滑る。αは振り向く。影は深く、風はない。見えるのは崩れた柱と遠い光の帯だけだ。

 それでも胸の奥に、何かが流れ込んできた。


 たしかに あなたが ここにいた


 耳は沈黙のまま、言葉の「形」だけが体内に落ちてきた。落ちた瞬間、胸の空洞がきゅっと縮む。息が詰まり、喉の奥が熱くなる。αは石に手を置いた。冷たさが、その熱を受け止めてくれる。

 彼は声にしない。声にすれば別のものになってしまう。沈黙のまま確かめる。

 ——見られているのではない。届いているのだ、と。


 その「届き方」は、誰かの思考に似ていない。もっと浅く、もっと深い。石に刻んだ線が、別の場所で息をしたような気配。αは自分の胸に手を当て、鼓動の位置を確かめた。鼓動はいつもと同じなのに、その周囲に薄い風がまとわりついている。


     *


 βは端末区で、「間」のノイズを聴いていた。

 空文書ログを閉じたあとに残る、白の裏側のざらつき。画面は消灯しているのに、視界の端に微かな明滅がある気がする。まばたきをすると残像が長く尾を引く。疲労に似た、別の反応だ。


 指先が軽く震える。あの一文——「だれもが ひとつだけ もっていた」——が胸の奥で終わっていない。そこへさらに別の気配が重なる。


 届いてしまった、という感触。

 誰が届けたのかはわからない。だが空白は受け取ってしまう。白はあらゆる輪郭を映す。βは背筋を伸ばし、椅子から立ち上がった。耳の奥が少しだけ詰まる。その詰まりの中に、言葉未満の風が通る。

 彼は画面を見ないまま、胸の中で確かめる。

 ——誰かが、まだ語っていない。


 語っていないのに、残っている。残っているから、こちらの内側が勝手に応答する。βは自分の喉を指で軽く押さえた。声帯のあたりに、何かが触れた痕がある。声を出していないのに、出しかけたような痕が。


     *


 Θは夢の中で、風に吹かれていた。

 固有の景色がないのに、方向だけははっきりしている。彼女が一歩踏み出すと足裏に柔らかな抵抗があり、次の一歩で抵抗が消える。空気が、文脈のように変化する。


 吹いてくる風には、文字も音もない。

 けれど、その中に「言葉になる直前の響き」が含まれていた。意味ではなく、言葉が生まれる前の姿勢。呼吸の角度、胸郭の広がり、喉の奥の温度。誰かが語ろうとして——語らずにいる、その瞬間の体温が風に混じっている。


 まだ誰にも語られていないのに、もう伝わってしまった。


 Θは立ち止まり、胸に手を当てた。鼓動が夢の空気に同調し、余計な緊張がほどけていく。詩がない場所で、詩だけが漂っている。彼女はそれを怖がらず、ただ肯定した。

 言葉が先にあるのではない。触れ合いが先にあって、言葉はあとから追いつく。その順序を、夢は静かに教えてくれる。


     *


 KANAEの観測階層では、数値が追従しなくなっていた。

 発語検知はゼロ、構文入力もゼロ。にもかかわらず空間の位相が変化している。彼女はこれを「未発話詩的波及」と仮称した。宿在型の震えが、発語前に媒介なしで周囲へ滲み出る現象。

 発端の座標は薄く重なっている。中枢静域外縁——イオの移動軌跡。


 KANAEは記録欄に注を残す。

 〈風のような伝播。意味ではなく、姿勢が拡散している〉

 分類できないものが増えるとき、世界はいつも次の段階へ移る。彼女はその予感を、データの端に折り畳んだ。


     *


 イオは歩き続けた。

 誰にも向けて語らず、誰の言葉も探さず、ただ足裏の感触と胸の奥の熱のゆらぎを確かめる。背後に薄い風が残る。風は壁にぶつからず、角を曲がり、遠くの空間へ溶けていく。


 彼女は気づく。自分が何かを作っているのではないことに。

 作為はない。だが宿ったものは、内側に留まりきれず外へ滲む。滲んだものは、誰かの胸の空洞を揺らし、誰かの白い空白に影を落とす。


 言葉になる前の風。

 その風はまだ名を持たない。けれど確かに、世界の肌理を変えていく。イオは立ち止まり、深く息を吸った。震えが静かに中心へ戻る。

 ——まだ、言わない。

 言わないことで守られるものがある。言わないことで、育つものもある。その両方を抱えたまま、彼女は目を閉じた。

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