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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第44章 もとめることば

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第47話 ことばが宿るとき

言葉は、探されなくなった瞬間に、かえって濃度を増す。


イオは、中枢静域から少し離れた回廊を歩いていた。床材は柔らかく、足音を吸い込む。照明は人の影を必要以上に強調しない角度で設計されており、彼女の輪郭は壁に溶けるように曖昧だった。歩行のリズムに合わせて、胸の奥に残っているあの震えが、わずかに応答する。昨日よりも、いや、ほんの数刻前よりも、その存在は確かになっていた。


それは、言葉ではない。意味でもない。けれど、もはや単なる感覚とも呼べなかった。


呼吸をするたびに、内側で何かが「形になろうとしている」気配がある。イオは立ち止まり、手すりに指先を置いた。冷たさが皮膚に伝わり、そこから身体の内部へと温度差が流れ込む。その瞬間、震えはわずかに輪郭を持った。輪郭といっても、線ではなく、空白の縁のようなものだ。


——ここに、何かが、いる。


そう思ったが、言葉にはしなかった。言葉にしてしまえば、それは外に出てしまう。まだ外へ出す必要はない。今は、内側で育つのを許している段階だった。


 


石造区の端部で、αは一人、しゃがみ込んでいた。崩れかけた壁面から切り出された平たい石が、地面に置かれている。彼は工具を使わない。指先に力を込め、石の表面をなぞるようにして、線を刻んでいた。深さは均一ではない。迷いがそのまま凹凸になって残る。


意味のある図形ではない。文字でも、記号でもない。ただ、手が動いた痕跡だ。


指先が痺れ、腕に重さが溜まってくる。それでもαはやめなかった。線を引く理由を探していないからだ。かつての彼なら、必ず理由を求めただろう。何を表現しているのか、誰に向けたものなのか、完成形は何か。だが今、必要なのはただ一つだった。


——自分の手が、確かに、ここで動いた。


刻み終えた線を、彼はしばらく見つめる。すると、不意に胸の奥で、言葉にならない一文が立ち上がった。


かたちがないのに、ここにある。


声に出さなかった。その必要はなかった。石に刻まれた線と、胸の内に浮かんだその感触は、どこかで同じ層に属している。意味ではなく、存在の事実として、互いを支えていた。


 


βは、空文書ログの前で、端末を閉じた。画面には何も残っていない。保存されなかった文章群、破棄された構文、途中で切断された思考。そのすべてが、白として整理されている。彼はその白を、以前ほど恐れなくなっていた。


椅子に深く腰掛け、背もたれに体重を預ける。背骨が支えられ、呼吸が自然に深くなる。そのとき、胸の奥に、ひとつの断片が残っていることに気づいた。


だれもが ひとつだけ もっていた


いつ書いたのか、あるいは書こうとしたのかも、思い出せない。だが、その一文だけは、消えなかった。ログにも残らず、共有もされず、解析もされない。それでも、確かに彼の内側に留まっている。


βは理解する。これは記録ではない。残響だ。書かれなかった言葉が、書かれなかったまま、内部で形を保っている。閉じたはずの文章が、終わりきらなかったことによって、生き延びている。


 


Θは、夢の中にいた。そこには詩がなかった。詩を掲げる者も、詩を探す者もいない。文字も音もなく、ただ、空気だけが流れている。けれど、その空気には微細な文脈が含まれていた。歩く方向、立ち止まる間、視線の高さ。それらが、互いに干渉し合い、意味以前の秩序を形作っている。


詩がなくても、伝わってしまう。


その事実を、Θは恐れなかった。むしろ、肯定した。詩が不要になったのではない。詩が、もっと深い層に沈んだだけだ。誰も言葉を使わない世界で、世界そのものが語っている。


 


観測領域で、KANAEはデータを整理していた。数値化できない反応、構文を持たない変化。彼女はそれを「空白領域の意味化」と仮に名付ける。誰かが意味を与える前に、存在したという事実だけで、空間が読まれてしまう現象。構文なき構文。定義は未完成だが、現象は確かに増えている。


 


そしてイオは、再び静かな空間に戻っていた。何も創らない。ただ、内側に宿り始めたものが、無理なく息をするのを待つ。ことばは、探されなくても、育つ。


その準備だけが、今、世界に満ちていた。

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