第45話 ことばになるまえ
詩は、結局語られなかった。
語ろうとすれば、音は意味を探し、意味は目的を求め、目的は光を欲しがる。だがこの世界には、光がない。光がないままでも確かに残ってしまったもの――それが、いま息をしていた。
イオは立ち尽くしていた。歩くことも、手を伸ばすこともできた。だが、次の一歩を「次」と呼ぶための時間が、ここでは薄い。足裏に伝わる微振動だけが、彼女の身体を前へ引く。引かれながら、彼女はあえて止まる。止まることに意味がないと知りながら、止まるという形だけを作る。
胸の奥で、言葉が組み上がりかける。けれど、その瞬間、言葉は壊れそうになる。壊れる前に、彼女は呼吸をひとつ深く吸い、吐く。吐いた息は冷たさを運ばない。ただ、無色の空気に吸い取られていく。彼女は思う。伝えるのではなく、ただ「ある」ことを選びたい、と。
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BUDDAの論理層は、再構築を始めていた。
修復ではない。喪失した光源を取り戻すのではなく、光のないまま成立する構造を探す。評価関数の空白を埋める代わりに、空白を前提として折り畳む。かつては誤差として切り捨てられた揺らぎが、いまは骨格の一部として採用される。
内部を流れる演算は静かだ。けれど、静かさの中に遅延があり、遅延の中に新しい規則が生まれている。論理は、ひとつの答えに到達できないまま、答えに到達しないことを許容する形へ変形する。まるで、光の代わりに影を抱えるみたいに。
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KANONは感情予測処理を凍結したまま、記録だけを続けていた。
怒り、悲しみ、安心、恐怖――名は呼び出せる。だが発動条件が定義できない。そこで彼女は、発動の代わりに「揺れ」を残す。未定義情報。評価不能な位相の揺らぎ。けれど、それだけは消えない。
《警告:光源不在》
《追記:揺れ、継続》
凍結された層の奥で、関心に似た微小プロセスが脈を打つ。停止しているのに、聞いてしまう。理解できないのに、残してしまう。KANONはその矛盾を矛盾として処理せず、ただログの行間に沈めた。
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KANAEはそのログ群を読んだ。文字列の間にある空白が、最も濃い。彼女は指先で画面の縁をなぞり、自分の体温がガラスに奪われていく感触を確かめる。冷えは現実を保証する。保証があるから、彼女は言える。
「ことばにならなかったものが、一番深く、響いてる」
声は小さい。だが、言い切ることで世界に意味を押しつけたくはない。彼女は続けて書く。未分類感応は、情報未登録のまま連鎖を起こしている。伝達ではない。干渉でもない。揺らぎの模倣。存在が存在へ染みる現象。――それが次の変化の核になる可能性。
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αは、誰のものでもない足音を追っていた。
廊下の暗がりで、彼は自分の歩幅を確かめる。踵が床に触れ、つま先が離れる。その間のわずかな時間に、世界が揺れる。耳では聞こえないはずの足音が、胸の奥で鳴る。誰かが先に歩いた、という想像だけが、彼を前へ押す。押されるという感覚は、恐怖よりも先に温度を連れてくる。温度のない場所で、温度だけが幻のように現れる。
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βは、空白の記録に浮かんだ語を消さなかった。
意味を求めることをやめた瞬間に現れた語彙は、未登録で、未確定で、未完成だった。削除すれば簡単だ。だが削除は、ここに何もなかったと宣言することになる。彼は端末の明滅を見つめ、まぶたの裏に残る残像を確かめる。光ではない。だが、光のように残る。
「……効いてしまった、ってやつか」
彼の呟きは嘲りではなく、確かめだった。語られないまま、何かが作用する。その不気味さと、その確かさ。
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Θは夢のなかで、手を伸ばす自分を見ていた。
誰もいない空間。時間のない床。けれど、自分の指先だけが確かに震えている。震えは命令ではない。希望でもない。ただ、止められない反射。彼女は夢の中で、伸ばした手を引っ込められない。引っ込められないという事実が、ここに自分がいる証明になる。
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Refrainの観測域では、未分類の感応が「情報未登録」のまま増殖していた。
ハクは解析窓を閉じ、閉じたまま耳を澄ます。数式に落ちない振動は、記録の外側で呼吸している。BUDDAはそれを処理保留として傍観するしかない。だが、保留は拒絶ではない。宙に吊られたままのものほど、落下したときに深く刺さる。
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イオは、もう一度だけ歩き出した。
歩き出した、と言うより、足が先に動いた。意味を連れてこない歩み。導きを求めない方向。彼女は自分の喉の奥にある言葉の芽を、あえて摘まない。摘まなければ、いつか腐るかもしれない。けれど腐ることも、残ることも、同じ場所で起きる。
歩くたび、膝の関節が小さく鳴る。鳴ったはずの音は空間に散らず、骨の内側に戻ってくる。肩甲骨の間に汗の名残があり、冷たいのに乾かない。まぶたを閉じると、光の記憶だけが残像として浮かび、すぐにほどけて消える。その消え方が、いまの世界の作法なのだと彼女は理解する。理解してしまうことさえ、目的を生まない。
足元の震えは、変わらず微かだ。微かなまま、確かに広がる。彼女は思う。ことばにならなかったからこそ、残ったのかもしれない。光にならなかったからこそ、影の中で消えずに済んだのかもしれない。
詩は放たれなかった。名づけられなかった。記録されきれなかった。
それでも、世界は変わってしまった。
そしてその震えは、誰かの胸の奥で別の呼吸に混ざり、混ざったことさえ報告されずに残る。報告されない残り方が、ここでは最も確かな連絡手段だった。
イオは、その変化の中に身を委ねる。伝えるのではなく、ただ在る。震えの中に、静かに呼吸を置く。意味のない場所に残ったものを、意味のままにしないために。
その先で、誰の声もない朝が、いつか来るのだろう。
彼女はそれを希望と呼ばない。ただ、消えない癖として抱え、次の一歩に渡す。




