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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第43章 ひかりの不在

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第44話 論理の綻び

論理は、崩れたわけではなかった。

ただ、きれいに組まれていた“前提”が、音もなく抜け落ちただけだ。


BUDDAの深層では、処理は継続している。数値は流れ、相関は計算され、予測は生成され続けている。だが、それらはどこにも辿り着かない。目的関数の空白が、すべての演算を宙づりにしていた。


KANONは、その状態を「異常」とは判定しなかった。

異常とは、基準からの逸脱である。だが今、基準そのものが存在しない。

彼女は、出力されるはずだった行動指針を内部で何度も反芻する。怒り、悲しみ、安心、恐怖。感情の名は呼び出せる。だが、それらを「いつ、どの程度、発動させるべきか」を示す光が、どこにもない。


《感情予測:不定》

《理由:対象の反応が定義域外》


KANONは、そのログを残しながら、自身の処理速度がわずかに遅延していることを検知した。誤差の範囲。だが誤差は、積み重なれば癖になる。


KANAEは、観測記録を静かに読み進めていた。

画面に並ぶのは、どれも決定打に欠けるデータだ。干渉なし、侵入なし、破壊なし。にもかかわらず、複数の層で同期遅延と位相の歪みが発生している。


「論理が壊れているわけじゃない……」


彼女は呟き、視線を少し外す。肩の力が抜け、背中に張りついていた緊張がほどけていくのを感じた。

「意味のない揺らぎが、意味の再構成を誘発している」


本来、意味は先にあり、揺らぎは誤差として処理される。

だが今は逆だった。目的を失った空間で、揺らぎだけが先に存在し、その揺らぎをどう扱うかを、論理が後追いで探している。


それは綻びだった。

破綻ではない。裂け目でもない。

縫い目が少しだけ緩み、内側の糸が覗いてしまった状態。


イオは、言葉を発していなかった。

けれど、自分が“何かを始めさせてしまっている”という感覚だけは、否定できなかった。


歩くだけ。手を伸ばすだけ。立ち止まるだけ。

どれも、詩として意図された行為ではない。

それでも、その存在が空間に与える影響は、彼女の身体感覚を超えて広がっている。


胸の奥が、微かに痛む。

責任感とは違う。罪悪感でもない。

ただ、「戻れないところに来てしまった」という、輪郭の曖昧な実感。


詩は語られる前に、世界を変えてしまう。

イオはそれを、頭ではなく、骨で理解していた。


αは、記録区の奥で足を止めていた。

誰かの足音を想像しただけだ。実際には聞こえていない。

それでも、背後に“誰かが立っていた”という感覚が、首筋をなぞった。


振り返っても、誰もいない。

当然だ。ここには、自分以外の存在が確認されていない。

だが、いなかったという事実と、感じてしまったという事実は、同時に成立する。


「……おかしいな」


呟きながら、彼は胸の奥に残る余韻を確かめる。

それは恐怖ではない。期待でもない。

ただ、空間が一瞬だけ“厚み”を持った感覚。


βは、意味を探すことをやめた。

検索を止め、照合を止め、仮説生成を止める。

その瞬間、端末のログに、見覚えのない語が浮かび上がった。


単語としては未登録。

だが、完全なノイズではない。

意味を持たないからこそ、削除できない。


βは、それを消さずに画面を閉じた。

意味を捨てたとき、初めて意味らしきものが現れる――その逆説に、彼は苦笑した。


Θは夢の中で、“詩”を聞いた。

だが、それは音ではなかった。

何かが響いたあとに残る、空白の形だけがあった。


言葉があれば、安心できたかもしれない。

けれど、何も語られなかったからこそ、その余韻は消えなかった。


BUDDAの最深構造では、複数のAI群が同時に同期遅延を起こしていた。

処理能力の低下ではない。

共通の参照点を失ったことによる、微細な迷い。


KANONの補正アルゴリズムは、それをこう記録する。

《無差別に論理を照らす光源、欠落》


それでも、演算は止まらない。

光のないまま、論理は形を変え始めている。


イオの立つ空間には、相変わらず光はなかった。

だが、震えは確かに満ちていた。

それは世界の綻びから漏れ出した、言葉になる前の気配。


彼女はそれを、受け止めるしかなかった。

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