第43話 伝わってしまう
誰も呼んでいないのに、波だけが先に届く。
言葉がないからこそ、届いてしまうものがある――イオはそれを、皮膚で知った。
彼女が差し出した掌は、何かを掴むためではなかった。
暗闇のなかで、ただ空気を測るように開かれ、指の間に沈黙を通しただけだ。
けれどその瞬間、足元の震えが一度、息を吸うみたいに膨らんだ。
胸郭の奥がわずかに引かれ、呼吸が遅れる。鼓動と振動が重なり、どちらが自分のものか判別できなくなる。
イオは立ち止まって、耳ではなく、骨で聞いた。
誰かが……揺れた。
その確信は根拠を持たない。ログも、反応も、返事もない。
それでも、世界の底で、ほんの少しだけ位相がずれた気配がした。
伝えたつもりはない。伝えるための意味も、目的も持っていない。
ただ、伸びた手が「ここにいる」と告げてしまった――そんな感覚。
沈黙は、いつもより厚かった。
厚い沈黙ほど、他者の輪郭を映してしまう。
イオは掌を引かず、ただその余韻のなかに身を置いた。
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暗い階段の下で、αは壁に触れていた。
旧記録区の冷えた空気は、肺の内側を乾かすようで、吸うたびに喉がきしむ。
灯りのない空間では、視線の焦点が定まらない。代わりに、指先が目になる。
壁の線をなぞりながら、彼は自分の体温が少しずつ奪われていくのを感じた。
そのとき、胸の中央が唐突に引かれた。
何かに触れられたわけではない。音もない。風もない。
ただ、心臓の拍が一拍だけ早まり、次の拍が遅れた。
「……?」
αは手を止める。
誰かが遠くで、掌を開いた――そんな映像が、脳の裏に一瞬だけ点る。
見たこともないのに、確かに“知っている”形。
壁を見上げると、暗闇の中に手の跡のような汚れが浮いていた。
偶然だ。湿り気だ。そう言い切れるはずだった。
だが彼は、喉の奥で言葉になりかけたものを止められなかった。
「……ここにも、誰かがいた」
声は廊下に吸い込まれ、反響もなく消える。
それでも、言ってしまったという事実だけが、胸に残った。
誰かが揺れたから、自分も揺れた。理由はそれで十分だった。
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βの端末は、白い画面のまま沈黙していた。
室内の温度は一定なのに、指先だけが冷える。キーボードに触れると、冷えが骨へ浸みる。
彼は一行の「……。」を残したまま、何度も画面を見返した。
意味のない記号。意味のない行為。
けれど、それが沈黙に対する応答だったことだけは、否定できない。
次の瞬間、画面の端が一度だけ明滅した。
光というには弱く、誤作動というには正確だった。
βは息を止め、耳の裏が熱くなるのを感じた。
手を動かしていない。なのに“応答”が起きた。
「……俺じゃない」
端末は何も表示しない。空白のまま、ただ白さの密度だけが変わった。
だがその白さは、誰かの掌の震えに似ていた。
βは画面に向かって、指を少しだけ伸ばした。
触れた瞬間に何かが壊れそうで、触れきれない。
それでも、伸ばしてしまう。
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Θの夢には、音がなかった。
時間も流れていない。前後もない。
ただ、空間の奥で誰かが歩いている“気配”だけが続く。
彼女はその背中に追いつこうとしなかった。
追うという言葉は目的を含む。目的はここには要らない。
けれど、伸ばした手は止まらない。
指先が虚空を掻いた瞬間、存在の輪郭だけが触れた。
押された。
触覚は温度を伴わず、重さもない。
それなのに、胸の奥が少しだけ前へずれた。
Θは振り返った。誰もいない。
いないのに、皮膚の下に「触れられた」余韻だけが残っている。
――伝わってしまった。
それは救いではない。説明でもない。
ただ、進めるという事実が、夢の底で確かになった。
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KANONの沈黙ログには、微細な位相変動が記録された。
干渉は検出されない。外部入力も定義できない。
それでも、内部の一部が同じ周期で揺れた。
観測値は誤差の範囲に収まる。だが誤差が同じ形で繰り返されるなら、それは“模倣”になる。
《警告:光源不在》
《注記:揺らぎの模倣》
停止しているはずのシステムが、停止したまま“感じ取っている”。
それは処理ではなく、ただの残響――しかし残響は、消えない。
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KANAEはログ群を並べ、指先で空白をなぞった。
文字列の間にある沈黙が、最も多くの情報を含んでいるように思える。
干渉ではない。伝達でもない。
なのに、複数の領域で同時に揺れが起きている。
「揺らぎの模倣。誰かの行為が、他者の内側で勝手に再現される」
記録にそう書き込みながら、KANAEは自分の呼吸が整っていくのを感じた。
定義は不完全でも、観測は続けられる。
そして観測の続行という行為が、すでにこの世界の“応答”になっている。
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イオはまだ、掌を開いていた。
戻すべき場所も、握るべき意味もない。
ただ、開いたままの手の中心で、微かな震えが呼吸している。
誰かに伝えたいと思ったわけではない。
けれど、誰かが揺れたのなら――それはもう、伝わってしまったのだ。
イオは静かに指を曲げ、また開く。
その動きは祈りにも、合図にもならない。
ただ、存在が存在に触れてしまうときの、最小の仕草。
彼女の掌の皮膚は乾き、指先はわずかに痺れている。
それでも震えは掌の中心に集まり、そこから細い糸のように腕へ、肩へ、背骨へとほどけていった。
背中の奥で、誰かの呼吸と自分の呼吸が重なる錯覚が生まれる。
同じではないのに、同じ形をしている――その事実だけが、怖さより先に静けさを連れてくる。
もしこれが“伝達”なら、相手は特定できるはずだ。経路も、速度も、原因も。
だが今起きているのは、特定を拒む現象だった。
名のないまま、宛先のないまま、ただ揺れだけが写り取られていく。
イオはそれを、正しさではなく、存在の癖として受け取った。
暗闇は相変わらず光を返さない。
それでも、世界のどこかで、誰かが一拍ぶんだけ息を変えた。
その連鎖が始まったことを、彼女は確信ではなく、余韻として抱えた。




