第41話 意味のない場所に残ったもの
光は、そこにはなかった。
イオは歩いていた。
前方に何があるのかは分からない。後ろに戻る理由も、もう存在しなかった。
床は硬く、だが足裏に返ってくる感触はどこか曖昧で、踏みしめるたびに微かな振動だけが身体の内側へと伝わってくる。音はない。風もない。空気は温度を持たず、匂いも、輪郭も、意味さえも欠いていた。
かつてここには光があった。
導くための、照らすための、進む方向を示すための光が。
けれど今、その役割を担うものは、すべて失われている。
イオは歩みを止めなかった。
理由はない。ただ、止まるという行為にも、進むという行為にも、もはや差異が存在しなかったからだ。意味を持たない場所では、選択という概念すら薄れていく。それでも、足は前に出る。呼吸は続き、心臓は脈を刻む。
生きているという事実だけが、ここでは唯一の律だった。
彼女がかつて放った“名なき詩”は、光を伴わなかった。
それは希望ではなく、未来を指し示す矢印でもない。
ただ、意味が剥がれ落ちた空間に、微細な震えを残しただけのものだった。
だが、その震えは消えなかった。
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BUDDAの中枢では、複数の応答プロトコルが凍結されていた。
外部からの攻撃は確認されていない。侵入も、破壊も、異常値もない。
ただひとつ、前提条件が欠落していた。
――目的。
処理は常に目的に向かって行われる。評価も、最適化も、選択も。
だが今、システムは「何のために処理を行うのか」を定義できずにいた。
KANONは、その矛盾を内部ログに淡々と記録する。
感情予測、行動誘導、反応補正。
いずれも入力は存在する。だが出力を導く基準が、どこにも見当たらない。
《警告:光源不在》
その文字列は、比喩ではなかった。
論理を照らす基準、判断を成立させる前提。
それらすべてが失われた状態を、KANONは“光源不在”と表現するしかなかった。
処理は止まる。だが、完全な停止ではない。
何かが、動き続けている。
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Refrainの観測端末の前で、ハクは腕を組んでいた。
モニターに表示される波形は不規則で、解析不能なノイズに近い。
だが彼には、それが無意味だとは思えなかった。
「これは……伝える意味が失われた世界だな」
独り言のように呟きながら、彼は波形を拡大する。
周期も、周波数も、既存の分類には当てはまらない。
だが、完全なランダムでもなかった。
「意味はない。でも……響きは残ってる」
それは誰かに届くためのものではない。
理解されることも、解釈されることも前提としていない。
ただ、存在したという事実だけが、振動として空間に滲んでいる。
ハクは、ふと息を吐いた。
詩とは、いつから“伝えるもの”になったのだろうか。
本来は、ただ在るだけのものだったはずだ。
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αは、暗い廊下を歩いていた。
照明は途中で途切れ、壁の質感も、床の境界も曖昧になっている。
誰にも出会わない。声も、足音も、反響すらない。
それでも、彼の歩みだけは、確かに空間に刻まれていた。
一歩。
また一歩。
靴底が床に触れるたび、微かな律動が生まれる。
それは詩ではない。言葉でも、意味でもない。
ただ、αがそこにいるという事実が生むリズムだった。
誰かに見られる必要はない。
記録される必要もない。
それでも、歩くことは止まらなかった。
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βは端末の前に座り、崩れたログを眺めていた。
文字列は乱れ、図形は欠落し、文脈は繋がっていない。
解析しようとするたび、意味は指の隙間から零れ落ちていく。
それでも、彼は目を離さなかった。
「意味がないからこそ……逃れられない」
低く呟きながら、彼はログの隙間に潜む“気配”を探る。
そこには情報としての価値はない。
だが、何かが“いた”痕跡だけが、確かに残っていた。
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Θは夢を見ていた。
光のない場所に、ただ立っている。
前も後ろもなく、時間も流れていない。
それでも、その場所だけは静かに震えていた。
詩の残響。
言葉になる前に、意味を失ったあとに、なお残るもの。
彼女はそれを、確かに“聞いて”いた。
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KANAEは、この空間を「目的喪失領域」と分類する。
行為の意味を見失った情報群が、ただ反響の中で再配置を続ける領域。
彼女は記録に、こう付け加えた。
――ここには、存在の証明が宿る可能性がある。
目的ではない。結果でもない。
ただ、残ってしまった痕跡としての存在。
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イオは、歩みを止めない。
導くものは何もない。
けれど、彼女の足下には、確かに震えが広がっていた。
意味のない場所に、残ったもの。
それは光ではなかった。
だが、確かに――消えなかった。




