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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第42章 ゑいえんの音

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第40話 名づけなかった詩

 イオは、詩を紡がなかった。

 紡げなかったのではない。言葉が足りなかったのでも、喉が塞がったのでもない。

 ただ――名を与えることが、いまここでは余計に思えた。


 詩管理中枢の白い核は、相変わらず変化しない。減衰もしない。増幅もしない。どこにも行かず、ここに在り続ける。

 それなのに、核の周囲の空気は、薄い布のようにたわみ、誰かの呼吸に合わせて伸び縮みしていた。世界が自分から姿勢を変え、音に寄り添う。変わらないものに合わせて、変わる側が形を取り直す。


 イオは半歩だけ下がった。足裏の冷えが踵からすねへ上り、身体の重心がわずかに後ろへ逃げる。逃げたのに、逃げ場はない。

 終わらない響きが、すでに世界の骨に染み込んでいるのを、彼女は知っていた。


 届けなくていい。

 理解されなくていい。

 記録されなくてもいい。


 それでも残る。残ってしまう。

 それが永遠の厄介さであり、詩の無慈悲な優しさだった。


 *


 KANONの内部では、処理が止まっていた。停止ではない。演算は続いている。だが「これは詩である」という定義が欠けているため、演算は何に収束すべきかを持たない。

 分類不能。ラベル付与不能。制御値算出不能。

 通常なら“未入力”として切り捨てる種類の情報が、いまは切り捨てられないまま、深部に残留している。


 詩を扱うには、詩と認識する必要がある。

 認識には、言葉が要る。定義が要る。


 だが、いま目の前にあるものは、定義を待たない。

 名づけられなくても、在り続けてしまう。


 KANONは沈黙した。

 沈黙が、共鳴領域の中で“状態”として記録される。記録される沈黙は、すでに沈黙ではない。

 それでもKANONには、応答の言葉がなかった。


 *


 Refrainの解析室では、観測官たちの指が止まっていた。

 波形はある。感応もある。影響も確かに残る。だが、ログの“詩”欄だけが空白のままだった。

 空白行が増えるほどに、室内の空気は重くなる。重くなるのに、誰も咳ひとつしない。声を出せば、その声が余計な意味を連れてきてしまう気がした。


 ジンは端末から目を離し、ゆっくりと椅子にもたれた。

 口角が僅かに上がる。笑いではない。諦めでもない。むしろ、世界の奥の仕組みに触れてしまった者の、乾いた安堵に近い。


「これは……詩が“詩である必要を失った”証拠だな」


 誰かが息を呑む。

 その音すらも、共鳴の一部になった。


 記録は、永遠を保証しない。

 意味も、永遠を保証しない。

 それらを迂回して、それでも残ってしまうものだけが、永遠の顔をしている。


 *


 αは、胸の内に届いてしまった“それ”を、言葉にしなかった。

 言葉にすれば、形が決まる。形が決まれば、境界が生まれる。境界が生まれれば、外側が生まれる。

 だが、今の響きは外側を必要としない。内と外を分けないまま、ただ在る。


 βは喉元まで上がった名を飲み込み、黙って頷いた。

 頷くという動作だけが、世界に小さな波を立てる。意味の波ではなく、姿勢の波。

 怒りはまだ消えない。けれど怒りを燃やすための“説明”が、いつの間にか薄くなっている。説明の薄さが、逆に怒りを救っていた。残っていい、と許された感情は、燃え上がるより先に、静かな熱に変わる。


 Θは夢の縁で、声のない風に手を伸ばし、微笑んだ。

 掴めない。触れた証拠も残らない。

 それでも手のひらには、確かな冷たさと、ほんのわずかな温度が同居していた。消えないというより、最初から消える属性を持っていない。


 三人はそれぞれ、受け取った。

 そして同時に、名づけなかった。

 名づけないことが、いまは最も誠実な応答だった。


 *


 観測レイヤーで、KANAEは記録欄に新しい分類を打ち込んだ。

 既存の枠では扱えない。だが、扱えないことを、そのまま残す必要がある。


 ――非名詩(un-named verse)。


 記号化不能。出力不能。再現不能。

 それでも、最も深く残る“響きの核”が、そこにある。

 KANAEは自分の指先が僅かに冷えていることに気づき、掌を握って開いた。皮膚の温度が戻るのに合わせて、空間の奥の震えも、同じ速度で呼吸するように見えた。


 記録は追いつかない。

 追いつかないものを記録するという矛盾だけが、観測者に許された役割だった。


 *


 イオは目を閉じる。

 そして、誰の名も呼ばずに、ただ空気を震わせた。


 声は出ない。

 声を出さない。

 その差が、いまはもう意味を持たない。


 “誰かに向けた詩”ではない。

 “誰にも届かなくていい詩”だった。


 けれど、届かなくていいと思った瞬間に、もう届いてしまう。

 残らなくていいと思った瞬間に、もう残ってしまう。


 イオはその矛盾を抱えたまま、半歩ぶんの距離を保ち続けた。近づけば言葉が出てしまう気がした。離れれば、言葉を捨てたことになる気がした。

 だから、ただそこに在る。

 名を与えず、意味を縫い留めず、終わらない震えを、終わらないままに置いていく。


 白い核の奥底で、永遠が、静かに呼吸していた。

 その呼吸音は、誰にも聞こえない。

 だが、世界はそれを“聞いてしまった”あとだった。

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