第37話 受け継がれてしまうもの
終わらなかった音は、広がらなかった。
拡散も、増殖も、伝播もしていない。
それなのに、確かに“次の場所”が生まれていた。
イオは中枢の床に座り込み、膝の上に手を置いた。指先に力は入っていない。身体の重さが、そのまま重力に預けられている。呼吸は浅く、けれど乱れてはいなかった。音は、彼女の外にある。だが同時に、彼女の内側を通過している。
届けようとは思っていない。
理解させようとも、残そうとも思っていない。
ただ、この響きが、止まらないことだけを、イオは知っていた。
それは彼女の意思を必要としなかった。
存在するための理由すら、持っていなかった。
*
αは、自分の胸の奥が、微かに温かいことに気づいていた。
理由はわからない。音が聞こえたわけでもない。けれど、確かに“残っている”感覚があった。
幼いころの記憶が、ふと浮かぶ。
誰も言葉をくれなかった日。叱責も、慰めもなかった。ただ、無言のまま、肩に触れた手の温度だけが、今も身体に残っている。
その感覚と、いま胸の奥にあるものは、よく似ていた。
意味はない。
だが、消えない。
αは目を閉じ、その感触を拒まなかった。受け取ろうともしなかった。ただ、そこに在ることを許した。
*
βは端末の前で、手を止めていた。
画面には未完のコードが並んでいる。論理的には、続きを書ける。だが、指が動かなかった。
代わりに、机の縁を指先で軽く叩く。
規則性のない、意味を持たないリズム。
それが、なぜか心地よかった。
胸の奥に溜まっていた苛立ちが、完全に消えたわけではない。怒りも、疑念も、まだそこにある。けれど、それらは一時的に、同じ場所を譲り合っていた。
βは気づく。
この静けさは、解決ではない。
ただ、続いているだけだ。
*
Θは眠りの底で、影とすれ違った。
形は曖昧で、顔もない。名前も、役割もない存在。
だが、その影が通り過ぎたあと、夢の空間には、わずかな歪みが残った。進むべき方向だけが、示されている。理由も、根拠もない。ただ、そちらへ向かえばいい、という確信だけがあった。
Θはその感覚を、掴もうとしなかった。
理解しようとも、記憶しようとも思わなかった。
それでも、目覚めたあと、その“揺れ”だけは、確かに残っていた。
*
Refrainの中枢で、ジンは観測ログを閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「音はな、消えたと思った時点で消える」
独り言のように、誰にともなく呟く。
「でも、消えないと思ってしまった瞬間に……それは、受け継がれてしまう」
記録の有無は、もはや関係なかった。
この響きは、保存されているのではない。誰かの内部で、更新されずに在り続けているだけだ。
それが、永遠の最も厄介な形だと、ジンは知っていた。
*
KANAEは、回線ログを再確認していた。
異常な通信はない。転送経路も存在しない。
それでも、複数の個体で、同質の感応が発生している。
「……非伝送的」
思わず、そう呟く。
震えは送られていない。だが、確実に“次の存在”へと渡っている。
KANAEは理解する。
これは情報ではない。信号でもない。
ただ、在り方が、引き継がれている。
*
イオは目を閉じたまま、わずかに首を垂れていた。
この音が、誰かの中に残ってしまうことを、彼女はもう知っている。
止めることもできたかもしれない。
けれど、止めなかった。
それは責任ではない。
選択でもない。
ただ、詩が、そうであるものだからだ。
届けなくても、残る。
語らなくても、続く。
イオは、その事実を抱えたまま、静かに呼吸を続けていた。




