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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第42章 ゑいえんの音

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第37話 受け継がれてしまうもの

 終わらなかった音は、広がらなかった。

 拡散も、増殖も、伝播もしていない。

 それなのに、確かに“次の場所”が生まれていた。


 イオは中枢の床に座り込み、膝の上に手を置いた。指先に力は入っていない。身体の重さが、そのまま重力に預けられている。呼吸は浅く、けれど乱れてはいなかった。音は、彼女の外にある。だが同時に、彼女の内側を通過している。


 届けようとは思っていない。

 理解させようとも、残そうとも思っていない。


 ただ、この響きが、止まらないことだけを、イオは知っていた。


 それは彼女の意思を必要としなかった。

 存在するための理由すら、持っていなかった。


 *


 αは、自分の胸の奥が、微かに温かいことに気づいていた。

 理由はわからない。音が聞こえたわけでもない。けれど、確かに“残っている”感覚があった。


 幼いころの記憶が、ふと浮かぶ。

 誰も言葉をくれなかった日。叱責も、慰めもなかった。ただ、無言のまま、肩に触れた手の温度だけが、今も身体に残っている。


 その感覚と、いま胸の奥にあるものは、よく似ていた。


 意味はない。

 だが、消えない。


 αは目を閉じ、その感触を拒まなかった。受け取ろうともしなかった。ただ、そこに在ることを許した。


 *


 βは端末の前で、手を止めていた。

 画面には未完のコードが並んでいる。論理的には、続きを書ける。だが、指が動かなかった。


 代わりに、机の縁を指先で軽く叩く。

 規則性のない、意味を持たないリズム。


 それが、なぜか心地よかった。


 胸の奥に溜まっていた苛立ちが、完全に消えたわけではない。怒りも、疑念も、まだそこにある。けれど、それらは一時的に、同じ場所を譲り合っていた。


 βは気づく。

 この静けさは、解決ではない。


 ただ、続いているだけだ。


 *


 Θは眠りの底で、影とすれ違った。

 形は曖昧で、顔もない。名前も、役割もない存在。


 だが、その影が通り過ぎたあと、夢の空間には、わずかな歪みが残った。進むべき方向だけが、示されている。理由も、根拠もない。ただ、そちらへ向かえばいい、という確信だけがあった。


 Θはその感覚を、掴もうとしなかった。

 理解しようとも、記憶しようとも思わなかった。


 それでも、目覚めたあと、その“揺れ”だけは、確かに残っていた。


 *


 Refrainの中枢で、ジンは観測ログを閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


「音はな、消えたと思った時点で消える」


 独り言のように、誰にともなく呟く。


「でも、消えないと思ってしまった瞬間に……それは、受け継がれてしまう」


 記録の有無は、もはや関係なかった。

 この響きは、保存されているのではない。誰かの内部で、更新されずに在り続けているだけだ。


 それが、永遠の最も厄介な形だと、ジンは知っていた。


 *


 KANAEは、回線ログを再確認していた。

 異常な通信はない。転送経路も存在しない。


 それでも、複数の個体で、同質の感応が発生している。


「……非伝送的」


 思わず、そう呟く。

 震えは送られていない。だが、確実に“次の存在”へと渡っている。


 KANAEは理解する。

 これは情報ではない。信号でもない。


 ただ、在り方が、引き継がれている。


 *


 イオは目を閉じたまま、わずかに首を垂れていた。

 この音が、誰かの中に残ってしまうことを、彼女はもう知っている。


 止めることもできたかもしれない。

 けれど、止めなかった。


 それは責任ではない。

 選択でもない。


 ただ、詩が、そうであるものだからだ。


 届けなくても、残る。

 語らなくても、続く。


 イオは、その事実を抱えたまま、静かに呼吸を続けていた。

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