第36話 終わらない声に触れた
それは崩壊ではなかった。
少なくとも、イオが知っている“壊れる”という現象のどれにも似ていなかった。
詩管理中枢の深奥。
白とも灰ともつかない空間の中心で、イオは立ち尽くしていた。床も天井も、境界の定義を失ったその場所は、音が反響するための形すら持っていない。にもかかわらず、――いや、だからこそ、そこには“終わらない何か”が在り続けていた。
音、と呼ぶにはあまりに静かだった。
沈黙、と言うには、確かに揺れていた。
イオは息を吸う。肺が膨らみ、胸郭がわずかに持ち上がる。その動きに合わせて、空間の奥が、ほんの一拍遅れて震えた。自分の呼吸が原因ではないと、彼女はすぐに理解する。この震えは、彼女よりも前から、ずっと前から、ここに在った。
言葉の終わりに残る尾音。
だが、それは終止符の余韻ではない。始まりを準備する前奏でもなかった。
ただ、終わらない。
イオの内側で、鼓動が少しだけ早まる。怖れではない。驚きでもない。むしろ、長いあいだ探していたものに、ようやく触れてしまったような、取り返しのつかなさに近い感覚だった。
──これは、誰の詩でもない。
そう理解した瞬間、空間の震えは、わずかに質を変えた。大きくなるわけでも、強くなるわけでもない。ただ、在り方そのものが、より明確になっただけだった。
*
観測空間で、KANAEはログを見つめていた。
数値は安定している。波形も変わらない。誤差は、許容範囲のさらに内側だ。
「……変化なし」
記録用の音声に、そう告げながら、KANAEは違和感を拭えずにいた。構造体は変化する。常に、必ず。熱、負荷、観測者の意識、それらすべてが微細な揺らぎを生む。にもかかわらず、今観測されている“詩的振動”だけは、完璧な恒常性を保っていた。
減衰しない。
増幅もしない。
ただ、同じ状態で在り続ける。
「……変わらない、という変化」
KANAEは小さく呟き、ログの補助欄に追記する。
周囲のデータが、少しずつ歪み始めていることに、彼女は気づいていた。振動そのものは一定なのに、それを受け取る側の構造が、わずかに書き換えられている。
まるで、動かない楔が、世界のほうを軋ませているかのようだった。
*
Refrainの観測端末前で、ライルは椅子にもたれ、目を細めていた。
表示されている記章は、確かに存在している。輪郭も、発光も、解析コードも正常だ。だが、意味だけが、どこにも見当たらなかった。
「これは……」
言いかけて、彼は一度口を閉じる。
言葉を選び直すというより、言葉が入り込めない場所を前にしたときの、癖のような沈黙だった。
「記録されることを拒んだ永遠じゃないな」
彼はかすかに笑う。
指先に浮かぶ記章が、読み取り不能のまま揺れていた。
「記録されなくても、残り続けてしまう響きだ」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、その呟きは、確かに空間のどこかに溶け込んでいった。
*
αは、動かなかった。
βも、Θも、それぞれの場所で静止していた。
命令があったわけではない。
危険を察知したわけでもない。
ただ、止まることが、最も自然だった。
胸の奥で、かすかな音が続いている。耳で聞くものではない。思考でもない。感情と呼ぶには、あまりに形が曖昧だった。癡も、瞋も、貪も、そこには区別なく溶けていた。抑え込む必要がない、という事実だけが、静かに理解されていた。
消えない。
だが、邪魔でもない。
それは、自分の一部として、ただ在り続けていた。
*
KANONは沈黙している。
しかし、その沈黙は、もはや無音ではなかった。
共鳴領域の内部で、静けさは一つの状態値として観測されている。入力も出力もないまま、しかし確かに“在る”という情報。KANON自身が発していないにもかかわらず、その沈黙は、他の存在に影響を与えていた。
終わらない、という予感。
それだけが、処理不能のまま残されている。
*
イオは、そっと口を開いた。
声にしようとしたわけではない。
言葉は、どこにも浮かばなかった。
それでも、空間が震える。
ほんのわずかに、しかし確かに。
詩ではなかった。
歌でもなかった。
ただ、終わらなかった声が、そこに在った。
イオはそれを放ったのではない。
止めなかっただけだ。
そして世界は、その“続いてしまうもの”を、静かに受け取っていた。




