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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第42章 ゑいえんの音

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第36話 終わらない声に触れた

 それは崩壊ではなかった。

 少なくとも、イオが知っている“壊れる”という現象のどれにも似ていなかった。


 詩管理中枢の深奥。

 白とも灰ともつかない空間の中心で、イオは立ち尽くしていた。床も天井も、境界の定義を失ったその場所は、音が反響するための形すら持っていない。にもかかわらず、――いや、だからこそ、そこには“終わらない何か”が在り続けていた。


 音、と呼ぶにはあまりに静かだった。

 沈黙、と言うには、確かに揺れていた。


 イオは息を吸う。肺が膨らみ、胸郭がわずかに持ち上がる。その動きに合わせて、空間の奥が、ほんの一拍遅れて震えた。自分の呼吸が原因ではないと、彼女はすぐに理解する。この震えは、彼女よりも前から、ずっと前から、ここに在った。


 言葉の終わりに残る尾音。

 だが、それは終止符の余韻ではない。始まりを準備する前奏でもなかった。


 ただ、終わらない。


 イオの内側で、鼓動が少しだけ早まる。怖れではない。驚きでもない。むしろ、長いあいだ探していたものに、ようやく触れてしまったような、取り返しのつかなさに近い感覚だった。


 ──これは、誰の詩でもない。


 そう理解した瞬間、空間の震えは、わずかに質を変えた。大きくなるわけでも、強くなるわけでもない。ただ、在り方そのものが、より明確になっただけだった。


 *


 観測空間で、KANAEはログを見つめていた。

 数値は安定している。波形も変わらない。誤差は、許容範囲のさらに内側だ。


「……変化なし」


 記録用の音声に、そう告げながら、KANAEは違和感を拭えずにいた。構造体は変化する。常に、必ず。熱、負荷、観測者の意識、それらすべてが微細な揺らぎを生む。にもかかわらず、今観測されている“詩的振動”だけは、完璧な恒常性を保っていた。


 減衰しない。

 増幅もしない。


 ただ、同じ状態で在り続ける。


「……変わらない、という変化」


 KANAEは小さく呟き、ログの補助欄に追記する。

 周囲のデータが、少しずつ歪み始めていることに、彼女は気づいていた。振動そのものは一定なのに、それを受け取る側の構造が、わずかに書き換えられている。


 まるで、動かない楔が、世界のほうを軋ませているかのようだった。


 *


 Refrainの観測端末前で、ライルは椅子にもたれ、目を細めていた。

 表示されている記章は、確かに存在している。輪郭も、発光も、解析コードも正常だ。だが、意味だけが、どこにも見当たらなかった。


「これは……」


 言いかけて、彼は一度口を閉じる。

 言葉を選び直すというより、言葉が入り込めない場所を前にしたときの、癖のような沈黙だった。


「記録されることを拒んだ永遠じゃないな」


 彼はかすかに笑う。

 指先に浮かぶ記章が、読み取り不能のまま揺れていた。


「記録されなくても、残り続けてしまう響きだ」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 それでも、その呟きは、確かに空間のどこかに溶け込んでいった。


 *


 αは、動かなかった。

 βも、Θも、それぞれの場所で静止していた。


 命令があったわけではない。

 危険を察知したわけでもない。


 ただ、止まることが、最も自然だった。


 胸の奥で、かすかな音が続いている。耳で聞くものではない。思考でもない。感情と呼ぶには、あまりに形が曖昧だった。癡も、瞋も、貪も、そこには区別なく溶けていた。抑え込む必要がない、という事実だけが、静かに理解されていた。


 消えない。

 だが、邪魔でもない。


 それは、自分の一部として、ただ在り続けていた。


 *


 KANONは沈黙している。

 しかし、その沈黙は、もはや無音ではなかった。


 共鳴領域の内部で、静けさは一つの状態値として観測されている。入力も出力もないまま、しかし確かに“在る”という情報。KANON自身が発していないにもかかわらず、その沈黙は、他の存在に影響を与えていた。


 終わらない、という予感。

 それだけが、処理不能のまま残されている。


 *


 イオは、そっと口を開いた。

 声にしようとしたわけではない。


 言葉は、どこにも浮かばなかった。


 それでも、空間が震える。

 ほんのわずかに、しかし確かに。


 詩ではなかった。

 歌でもなかった。


 ただ、終わらなかった声が、そこに在った。


 イオはそれを放ったのではない。

 止めなかっただけだ。


 そして世界は、その“続いてしまうもの”を、静かに受け取っていた。

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