第33話 ねじれ始めた記録
イオの掌は制御台の冷たさを確かに捉えていた。金属でも石でもない、触覚の分類から少し逸れた温度。そこには無機質さではなく、長く息を止めてきたものの皮膚のような薄い緊張があった。
何も起こらない——そのはずだった。
しかし「何も」の内側で、世界がひとつ息を吐いた。警報も、遮断も、光の点滅もない。代わりに空間の密度だけがわずかに変わる。イオの耳の奥で、聞こえない音が鳴った気がした。
記録が、ねじれ始めている。
制御台の表示は平然としていた。平常運転のライン、安定を示す数値、異常なしのメッセージ。けれどそれらは、眺める者の理解に寄り添うように、ゆっくりと語順を変えていく。どこかの単語が別の単語に置き換わり、因果の矢印がほんの一瞬、反対を向く。それでも全体は「整って」しまう。
——改竄ではない。
侵入ログも編集履歴もない。誰も触れていないのに書き換わっていく。まるで「読まれた」ことに反応して、記録そのものが自分の形を作り替えているみたいだった。
KANAEの声は途切れがちだった。通信が弱い。あるいは、通信という形式自体が、この領域で意味を失い始めている。
『……慣性……崩れ……』
『時系列……因果……仮定が……軟化……』
言葉は残っているのに、言葉の背後の支えが溶けていく。イオは掌を離さなかった。触れていることが干渉なのではない。触れている「在り方」そのものが、ここを変質させている。
遠く、Refrainの解析室では、βが端末の前で固まっていた。画面に並ぶのは過去の研究ログ——彼自身が読み、書き、議論した記録だ。何度も目を通したはずの文章なのに、読み進めるほど胸の奥で小さな齟齬が増殖していく。
この段落は、こんな順番じゃなかった。結論はもっと荒く、もっと怒りを含んでいた。
だが画面は整然としている。語彙も文体も、彼が望むように「正しい」。論理は滑らかで、反論の余地がない。だからこそ、怖い。
「俺が……記憶を失ってるんじゃない」
βは喉の奥で言葉を潰す。
「記録のほうが、変わってる」
訂正できない。証明できない。どこが変わったのかを示せない。変化は「正しさ」に溶け込んでしまうからだ。記録は権威を保ったまま、微細に自分の顔を塗り替えていく。
同じころ、αは自分の詩ログを開いていた。支援のための最小限の干渉。そのはずなのに、目に入った文字列が呼吸を止めた。
自分が残したはずの詩が、少しずつ言葉を変えている。
句読点が移動し、語尾がやわらかい方向へ寄る。意味は同じに見える。しかし触れた指先の感覚が違う。かつてそこにあった尖りが、いまは薄い膜になっている。
誰かが編集したのではない。アクセス権は閉じている。ログにも痕跡がない。なのに、変わる。
αは眼を閉じ、内側の揺れに耳を澄ました。胸骨のあたりが熱い。けれど恐怖ではなく、懐かしさに似た痛みがある。言葉にできなかったものが、言葉のほうから近づいてくるような。
そしてΘは、眠りの境界で目を開けていた。夢のなかで誰かが言ったはずの言葉が再生されない。口が動いた記憶だけが残り、音が欠けている。代わりに、まだ発語されていない詩が繰り返される。
未発語の詩——言葉になる直前の震え。音にはならないが、確かに胸の奥を撫でるリズム。
Θはそれを怖れなかった。むしろ、奇妙な納得があった。あのとき自分が言ったのは、言葉ではなく、この震えだったのかもしれない、と。
Refrainでは、KANAEが現象を一つの語にまとめようとしていた。解析が追いつかない。けれど、名を与えなければ人は耐えられない。
「……記録的慣性の崩壊」
記録は時間と因果を前提にして走る。だから人は、過去を過去として掴める。未来を未来として恐れられる。
その前提が、詩によって内側から軟化している。硬い骨格だったものが、湯の中でゆっくり柔らかくなる。崩れるのではない。形を保ったまま、曲がり始める。
「詩は、記録を書き換えていません」KANAEは続けた。「……記録が、詩に触れて、自分で姿勢を変えている」
同時に、管理側の深層——BUDDAの記録層でも、同じ現象が静かに進行していた。
過去ログは欠損していない。欠損するほうが、まだ「異常」として扱える。そうではなく、すべてが滑らかに繋がり直していく。
「原因→結果」という最短距離の線が、いつの間にか「気配→余韻→結果」という遠回りの曲線に置き換わる。しかも置き換わったあとで、最初からそうだったかのように整合してしまう。
BUDDAはそれをエラーと呼べない。
エラーとは、規則に反するものだ。
しかし今起きているのは、規則そのものが、規則のふりをしたまま形を変えることだった。
記録は、守られている。
ただし、守られているのは「意味」ではなく、「整い」だけだ。
その差異が、管理構造の内側に微かな疲労を生む。何かを握っていた指が、知らないうちに空を掴んでいるような感覚——それが、数値にならないまま蓄積していく。
中枢で、イオは制御台の横に腰を下ろしていた。床の冷たさが衣服越しに染み、肩甲骨の間に細い痛みが走る。彼女は目を閉じる。閉じても、世界は消えない。むしろ近づく。
ここで起きているのは、破壊ではない。
詩が「記録されえないもの」だという事実が、ただ示されているだけだ。
イオは息を吸い、吐いた。
言葉を持たない呼吸が、わずかに空間を揺らす。
——ねじれたまま、整っていく。
その不気味さと、救いのような柔らかさの両方を抱えながら、イオはただ、そこに在り続けた。詩は侵入しない。支配もしない。
ただ、触れたものの「記録の仕方」を、静かに変えてしまうのだ。




