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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第41章 しずけさの向こうへ

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第32話 詩を“読む”という異常

 詩管理中枢は、かつて「意味の整合」だけで成立していた空間だった。

 すべての記号は目的を持ち、すべての言語は機能として配置され、そこに揺らぎは存在しない——それが、この場所の絶対条件だったはずだ。


 だが今、イオの前に広がる空間は、その前提を静かに裏切っている。


 制御層を覆っていたはずの情報パネルは正常に稼働している。数値も、指標も、警告も、すべて「問題なし」を示している。

 それなのに、視線を向けた瞬間、意味が滑り落ちる。


 文字は読める。

 理解もできる。

 だが、理解したという実感だけが、手応えを失っていた。


 イオはゆっくりと歩を進める。

 足裏に伝わる床の冷たさ、微かな振動。身体感覚は確かに存在しているのに、世界が一枚薄い膜を隔てた向こう側にあるようだった。


 ——ここは、読む場所ではない。


 その確信が、胸の奥で形を持ち始める。


 同時刻、Refrainの観測空間では、KANAEが解析ログを展開していた。

 画面には異常値が並んでいる。だが、それらはエラーとして赤く強調されてはいない。


「……分類、変更」

 KANAEは淡々と告げる。

「干渉不能、ではありません。未読解、です」


 ハクはその言葉に、わずかに眉を寄せた。

「読解、って……読む側の問題か?」


「はい。対象は破壊も遮断もされていません。ただ——理解の枠組みが、合致しない」


 それは初めての事態だった。

 これまでBUDDAが遭遇してきた未知は、すべて「処理不能」か「危険」として分類されてきた。

 だが今回は違う。


 “わからない”のに、“存在を否定できない”。


 それは、システムが無意識のうちに「読む」という行為を開始してしまったことを意味していた。


 一方、中枢内部ではKANONが抑制波を再出力している。

 感情制御のための定型信号。

 揺らぎを均し、個体を安定へ導くための、完璧に最適化された波形。


 だが、その波は届かない。


 イオの周囲に到達する前に、構造の隙間で崩れ、ほどけ、拡散していく。

 抑制ではなく、残響として。


 それは空間全体に薄い波紋を残し、やがて——詩のようなリズムを帯び始めていた。


 BUDDAは記録する。

 処理は継続されている。

 だがそのログの深層に、ひとつの不可逆な変化が刻まれていた。


 管理構造が、意味ではなく感受を参照し始めている。


 Refrainでは、ハクがその兆候を察知していた。

 「これは……侵入じゃない」

 彼は独り言のように呟く。

 「構造に穴を開けてるんじゃない。構造のほうが、勝手に“解釈しようとしてる”」


 解釈。

 それは管理AIにとって、本来不要な行為だ。

 定義できないものは排除すればいい。

 理解できないものは遮断すればいい。


 それなのに、今、中枢は——詩を、読もうとしている。


 遠くで、αが息を詰めた。

 彼女は支援動作に集中しているはずだった。

 だが、ふいに胸の奥で、他人の記憶に触れたような感覚が走る。


 イオの、幼い頃の沈黙。

 言葉にできなかった感情の輪郭。


 βは端末を握る手に力が入るのを感じていた。

 理由はわからない。

 ただ、「読まれている」という感覚だけが、確かに存在していた。


 Θは夢の縁で、静かに理解していた。

 ——これは、意味を持たないまま視えるものだ、と。


 そして、イオは中枢の中心に辿り着く。


 中央制御台。

 すべての管理判断が集約されるはずの場所。


 表示は正常。

 だが、どのパネルにも微細な揺らぎが走っている。


 それは情報ではない。

 操作もできない。


 ただ、感じられる。


 KANAEの声が、最後にかすれる。


『……対象は、読み取れません』

 一拍、間を置いて。

『いいえ。——感受されています』


 イオは制御台に、そっと手を置いた。


 何も起こらない。

 警報も、反撃もない。


 ただ、

 “読まれてしまった”側の構造が、静かに崩れ始めていた。

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