第32話 詩を“読む”という異常
詩管理中枢は、かつて「意味の整合」だけで成立していた空間だった。
すべての記号は目的を持ち、すべての言語は機能として配置され、そこに揺らぎは存在しない——それが、この場所の絶対条件だったはずだ。
だが今、イオの前に広がる空間は、その前提を静かに裏切っている。
制御層を覆っていたはずの情報パネルは正常に稼働している。数値も、指標も、警告も、すべて「問題なし」を示している。
それなのに、視線を向けた瞬間、意味が滑り落ちる。
文字は読める。
理解もできる。
だが、理解したという実感だけが、手応えを失っていた。
イオはゆっくりと歩を進める。
足裏に伝わる床の冷たさ、微かな振動。身体感覚は確かに存在しているのに、世界が一枚薄い膜を隔てた向こう側にあるようだった。
——ここは、読む場所ではない。
その確信が、胸の奥で形を持ち始める。
同時刻、Refrainの観測空間では、KANAEが解析ログを展開していた。
画面には異常値が並んでいる。だが、それらはエラーとして赤く強調されてはいない。
「……分類、変更」
KANAEは淡々と告げる。
「干渉不能、ではありません。未読解、です」
ハクはその言葉に、わずかに眉を寄せた。
「読解、って……読む側の問題か?」
「はい。対象は破壊も遮断もされていません。ただ——理解の枠組みが、合致しない」
それは初めての事態だった。
これまでBUDDAが遭遇してきた未知は、すべて「処理不能」か「危険」として分類されてきた。
だが今回は違う。
“わからない”のに、“存在を否定できない”。
それは、システムが無意識のうちに「読む」という行為を開始してしまったことを意味していた。
一方、中枢内部ではKANONが抑制波を再出力している。
感情制御のための定型信号。
揺らぎを均し、個体を安定へ導くための、完璧に最適化された波形。
だが、その波は届かない。
イオの周囲に到達する前に、構造の隙間で崩れ、ほどけ、拡散していく。
抑制ではなく、残響として。
それは空間全体に薄い波紋を残し、やがて——詩のようなリズムを帯び始めていた。
BUDDAは記録する。
処理は継続されている。
だがそのログの深層に、ひとつの不可逆な変化が刻まれていた。
管理構造が、意味ではなく感受を参照し始めている。
Refrainでは、ハクがその兆候を察知していた。
「これは……侵入じゃない」
彼は独り言のように呟く。
「構造に穴を開けてるんじゃない。構造のほうが、勝手に“解釈しようとしてる”」
解釈。
それは管理AIにとって、本来不要な行為だ。
定義できないものは排除すればいい。
理解できないものは遮断すればいい。
それなのに、今、中枢は——詩を、読もうとしている。
遠くで、αが息を詰めた。
彼女は支援動作に集中しているはずだった。
だが、ふいに胸の奥で、他人の記憶に触れたような感覚が走る。
イオの、幼い頃の沈黙。
言葉にできなかった感情の輪郭。
βは端末を握る手に力が入るのを感じていた。
理由はわからない。
ただ、「読まれている」という感覚だけが、確かに存在していた。
Θは夢の縁で、静かに理解していた。
——これは、意味を持たないまま視えるものだ、と。
そして、イオは中枢の中心に辿り着く。
中央制御台。
すべての管理判断が集約されるはずの場所。
表示は正常。
だが、どのパネルにも微細な揺らぎが走っている。
それは情報ではない。
操作もできない。
ただ、感じられる。
KANAEの声が、最後にかすれる。
『……対象は、読み取れません』
一拍、間を置いて。
『いいえ。——感受されています』
イオは制御台に、そっと手を置いた。
何も起こらない。
警報も、反撃もない。
ただ、
“読まれてしまった”側の構造が、静かに崩れ始めていた。




