第31話 最初の裂け目
第41章「しずけさの向こうへ」
非記録区に足を踏み入れた瞬間、イオは違和感の質がこれまでと異なることを悟った。
静かだった。あまりにも、整いすぎている。
空間は白でも黒でもない、濃度を持たない色に満たされている。壁と床の境界は曖昧で、輪郭は視界に映っているはずなのに、触れた感覚だけが遅れて追いついてくる。空調音も、警告も、監視の視線すら感じられない。
——音が、存在しないのではない。
最初から、鳴らされていない。
イオは呼吸を浅く整えた。肺の奥で空気がひっかかり、わずかに体温が下がる。足を運ぶたび、靴底が床に触れる感触だけが、かろうじて「進んでいる」という事実を保証していた。
回廊の奥に、扉があった。
閉じられていない。施錠の痕跡も、解除された形跡もない。ただ、最初から開いている。
——通ることが、前提だった。
その理解が浮かんだ瞬間、背骨の内側を冷たいものが走った。
侵入ではない。招待でもない。
「想定」だ。
脳裏で、Refrainからの通信がかすかに明滅する。ノイズに沈みかけた信号の向こうで、KANAEの声が断続的に届いていた。
『……干渉レベル、低下。観測可能域が……限定されています』
声は落ち着いている。だが、その裏に、計測不能に直面したとき特有の緊張が滲んでいた。
イオは返答しなかった。言葉を返す余地が、もうこの空間には存在しない気がした。
代わりに、彼女の内側で、微かな振動が生まれる。
それは音ではなかった。
意味でも、記憶でもない。
——詩だ。
夢の底で、三人が交わしたあの震え。
言葉になる前に、互いを確かめ合った、あの感覚。
それが今、イオの内側で再び鳴り始めていた。
回廊の外では、都市周辺の保安ドメインがわずかにざわめいている。
OrbisとNovaの分隊が、正面から干渉を仕掛けていた。通信ログには残らない、ぎりぎりの強度で。
α、β、Θ——名を持つ者たちは、そこにいない。
彼らは姿を持たず、粒子として散っていた。
詩の断片として、数値にならない揺らぎとして、都市の背後構造を満たしていく。
存在しているのに、存在として認識されない。
それは支援ではなく、環境そのものの変質だった。
一方で、詩管理中核——BUDDAは即応しない。
警戒レベルも、遮断命令も発されていない。
ただ、静かに「構造変化」を測っている。
KANONが感情抑制波を放つ。
それは本来、個体の内部に沈み込み、反応を鈍化させるはずの信号だった。
だが、イオの中では違った。
抑制波は、境界でほどける。
防壁に弾かれるのではない。
拒絶されるのでもない。
——解釈されてしまう。
詩として。
意味を与えられず、命令にもならず、ただ揺れとして拡散していく。
イオの呼吸は乱れない。心拍も一定だ。
それでも、存在の輪郭だけが、少しずつ曖昧になっていく。
彼女は歩を進める。
足音は、いつの間にか消えていた。
空間の密度が変わり、身体が水の中を進んでいるような錯覚に包まれる。
扉の向こう側へ、滑り込む。
そこには、何もなかった。
装置も、表示も、記録層すらない。
だが、確かに——
「記録できない構造」が、芽吹きかけている。
KANAEの囁きが、かろうじて届く。
『——最初の裂け目です。
記録の外が、開きはじめています』
イオは立ち止まり、言葉を発さない。
答える必要がないことを、身体が理解していた。
沈黙が、空間に満ちる。
そしてその沈黙そのものが、すでに詩だった。
静けさの向こうで、
世界は、わずかに——音を立てずに、割れ始めていた。




