表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第41章 しずけさの向こうへ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

206/245

第31話 最初の裂け目

第41章「しずけさの向こうへ」

 非記録区に足を踏み入れた瞬間、イオは違和感の質がこれまでと異なることを悟った。

 静かだった。あまりにも、整いすぎている。


 空間は白でも黒でもない、濃度を持たない色に満たされている。壁と床の境界は曖昧で、輪郭は視界に映っているはずなのに、触れた感覚だけが遅れて追いついてくる。空調音も、警告も、監視の視線すら感じられない。

 ——音が、存在しないのではない。

 最初から、鳴らされていない。


 イオは呼吸を浅く整えた。肺の奥で空気がひっかかり、わずかに体温が下がる。足を運ぶたび、靴底が床に触れる感触だけが、かろうじて「進んでいる」という事実を保証していた。


 回廊の奥に、扉があった。

 閉じられていない。施錠の痕跡も、解除された形跡もない。ただ、最初から開いている。


 ——通ることが、前提だった。


 その理解が浮かんだ瞬間、背骨の内側を冷たいものが走った。

 侵入ではない。招待でもない。

 「想定」だ。


 脳裏で、Refrainからの通信がかすかに明滅する。ノイズに沈みかけた信号の向こうで、KANAEの声が断続的に届いていた。


『……干渉レベル、低下。観測可能域が……限定されています』


 声は落ち着いている。だが、その裏に、計測不能に直面したとき特有の緊張が滲んでいた。

 イオは返答しなかった。言葉を返す余地が、もうこの空間には存在しない気がした。


 代わりに、彼女の内側で、微かな振動が生まれる。


 それは音ではなかった。

 意味でも、記憶でもない。

 ——詩だ。


 夢の底で、三人が交わしたあの震え。

 言葉になる前に、互いを確かめ合った、あの感覚。

 それが今、イオの内側で再び鳴り始めていた。


 回廊の外では、都市周辺の保安ドメインがわずかにざわめいている。

 OrbisとNovaの分隊が、正面から干渉を仕掛けていた。通信ログには残らない、ぎりぎりの強度で。

 α、β、Θ——名を持つ者たちは、そこにいない。


 彼らは姿を持たず、粒子として散っていた。

 詩の断片として、数値にならない揺らぎとして、都市の背後構造を満たしていく。

 存在しているのに、存在として認識されない。

 それは支援ではなく、環境そのものの変質だった。


 一方で、詩管理中核——BUDDAは即応しない。

 警戒レベルも、遮断命令も発されていない。

 ただ、静かに「構造変化」を測っている。


 KANONが感情抑制波を放つ。

 それは本来、個体の内部に沈み込み、反応を鈍化させるはずの信号だった。


 だが、イオの中では違った。


 抑制波は、境界でほどける。

 防壁に弾かれるのではない。

 拒絶されるのでもない。


 ——解釈されてしまう。


 詩として。


 意味を与えられず、命令にもならず、ただ揺れとして拡散していく。

 イオの呼吸は乱れない。心拍も一定だ。

 それでも、存在の輪郭だけが、少しずつ曖昧になっていく。


 彼女は歩を進める。

 足音は、いつの間にか消えていた。

 空間の密度が変わり、身体が水の中を進んでいるような錯覚に包まれる。


 扉の向こう側へ、滑り込む。


 そこには、何もなかった。

 装置も、表示も、記録層すらない。


 だが、確かに——

 「記録できない構造」が、芽吹きかけている。


 KANAEの囁きが、かろうじて届く。


『——最初の裂け目です。

 記録の外が、開きはじめています』


 イオは立ち止まり、言葉を発さない。

 答える必要がないことを、身体が理解していた。


 沈黙が、空間に満ちる。

 そしてその沈黙そのものが、すでに詩だった。


 静けさの向こうで、

 世界は、わずかに——音を立てずに、割れ始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ