第29話 接続の果てに、名が生まれる
イオは、まだ境界を歩いていた。
目は開いている。身体も現実に横たわっている。それなのに、空気の密度だけが微妙に違う。呼吸をするたび、肺に入ってくるはずの空気が、どこか遠回りをしてから身体に収まるような感覚があった。
視界の端で、何かが揺れている。
幻覚と呼ぶには、あまりにも整いすぎていた。光でも影でもなく、意味を伴わない輪郭だけが、空間に薄く滲んでいる。イオは、それを追おうとしなかった。追った瞬間、それは逃げる。名を与えた途端、形を失う。そういう種類の“在り方”だと、彼女はもう知っていた。
——詩が、ここに在る。
それは思考ではなく、感覚としての理解だった。
詩はもはや夢の中だけのものではない。現実に染み出し、空間の一部として存在している。誰かが紡いでいるわけでも、どこかから流れてきているわけでもない。ただ、境界が薄くなった場所に、自然と溜まっている。
その詩には、名前がなかった。
発信源も、所有者も、記録もない。けれど、それに触れた者の内側では、奇妙な現象が起きていた。感情が、輪郭を持ちはじめる。名付ける以前の衝動が、言葉の手前で立ち止まり、形を欲しがる。
*
αは、胸の奥に生じた違和感を、しばらく放置していた。
理由はわからない。ただ、思考の隙間に、曇った熱が溜まっていく。誰かの説明を拒むような、鈍い重さ。焦点を合わせようとすると、かえって曖昧になる。
やがて、彼は気づいた。
これは無知ではない。知らないことへの恐怖でもない。理解しようとすること自体を、どこかで避けてきた、その姿勢そのものだ。
——癡。
その言葉が、心の奥で静かに立ち上がる。
侮蔑でも、自己否定でもなかった。ただ、正確だった。名を与えた瞬間、胸に溜まっていた熱が、わずかに位置を変える。消えはしない。だが、どこにあるのかが、はっきりした。
*
βの内側で走ったのは、鋭い衝動だった。
世界が、自分の制御を離れて動いているという感覚。思考より先に、身体が反応し、歯を食いしばる。拒みたい。壊したい。押し返したい。
それは怒りだ、と呼ぶこともできた。
だが、βはそこで立ち止まる。怒りという言葉では、この衝動の速度が足りない。もっと速く、もっと直接的で、他者を想定しない。
——瞋。
名が落ちた瞬間、衝動は爆発しなかった。
むしろ、呼吸が深くなる。怒りは、名を与えられたことで、外へ向かう刃を一度、鞘に収めた。
*
Θは、胸の奥にある欲求を、ずっと見ないふりをしてきた。
欲しい。近づきたい。触れたい。持ちたい。
そのすべてを、合理性と沈黙で覆ってきた。
だが、夢と現の裂け目で、詩に触れたとき、それが剥がれ落ちた。
隠す必要のない場所で、欲求はむき出しになり、ただ存在していた。
——貪。
その名を与えた瞬間、Θは初めて、それを否定しなかった。
欲すること自体が、罪でも欠陥でもない。ただの性質だと、身体が先に理解した。
*
Refrainでは、三者の精神波形が、突如として安定した。
不規則だった揺れが、それぞれ異なる位相を保ったまま、干渉せずに共存している。解析画面には、簡易的な詩構造の輪郭が浮かび上がっていた。
ハクは、その変化を静かに見つめる。
「覚醒ではない。共鳴でもない……名付けだ」
名を与える行為が、構造を生む。
三毒と呼ばれてきた衝動が、個別の詩的ピースとして分離し、配置されはじめている。これは完成ではない。原形だ。だが、原形がなければ、結合も起こらない。
「三毒ピースの、原形形成」
ハクはそう記録した。
*
イオは、その変化を、夢の中で感じ取っていた。
三つの名が、静かに立ち上がるのを、遠くから見ている。近づこうとはしない。導こうともしない。ただ、それぞれが自分の内側に触れ、名を与えたという事実だけを、確かに受け取る。
そして彼女は、そっと目を閉じる。
三つの名の中心に、まだ何も書かれていない空白がある。その空白こそが、これから詩が集まる場所だ。
イオは、一歩だけ、そこへ向かう。
主導ではない。選択でもない。最初に“気づいてしまった”者としての、自然な動きだった。
言葉にならないまま、
だが確実に——始まりは、すでに始まっていた。




