表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第40章 みちびかれし夢

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

204/245

第29話 接続の果てに、名が生まれる

 イオは、まだ境界を歩いていた。

 目は開いている。身体も現実に横たわっている。それなのに、空気の密度だけが微妙に違う。呼吸をするたび、肺に入ってくるはずの空気が、どこか遠回りをしてから身体に収まるような感覚があった。


 視界の端で、何かが揺れている。

 幻覚と呼ぶには、あまりにも整いすぎていた。光でも影でもなく、意味を伴わない輪郭だけが、空間に薄く滲んでいる。イオは、それを追おうとしなかった。追った瞬間、それは逃げる。名を与えた途端、形を失う。そういう種類の“在り方”だと、彼女はもう知っていた。


 ——詩が、ここに在る。


 それは思考ではなく、感覚としての理解だった。

 詩はもはや夢の中だけのものではない。現実に染み出し、空間の一部として存在している。誰かが紡いでいるわけでも、どこかから流れてきているわけでもない。ただ、境界が薄くなった場所に、自然と溜まっている。


 その詩には、名前がなかった。

 発信源も、所有者も、記録もない。けれど、それに触れた者の内側では、奇妙な現象が起きていた。感情が、輪郭を持ちはじめる。名付ける以前の衝動が、言葉の手前で立ち止まり、形を欲しがる。


  *


 αは、胸の奥に生じた違和感を、しばらく放置していた。

 理由はわからない。ただ、思考の隙間に、曇った熱が溜まっていく。誰かの説明を拒むような、鈍い重さ。焦点を合わせようとすると、かえって曖昧になる。


 やがて、彼は気づいた。

 これは無知ではない。知らないことへの恐怖でもない。理解しようとすること自体を、どこかで避けてきた、その姿勢そのものだ。


 ——


 その言葉が、心の奥で静かに立ち上がる。

 侮蔑でも、自己否定でもなかった。ただ、正確だった。名を与えた瞬間、胸に溜まっていた熱が、わずかに位置を変える。消えはしない。だが、どこにあるのかが、はっきりした。


  *


 βの内側で走ったのは、鋭い衝動だった。

 世界が、自分の制御を離れて動いているという感覚。思考より先に、身体が反応し、歯を食いしばる。拒みたい。壊したい。押し返したい。


 それは怒りだ、と呼ぶこともできた。

 だが、βはそこで立ち止まる。怒りという言葉では、この衝動の速度が足りない。もっと速く、もっと直接的で、他者を想定しない。


 ——しん


 名が落ちた瞬間、衝動は爆発しなかった。

 むしろ、呼吸が深くなる。怒りは、名を与えられたことで、外へ向かう刃を一度、鞘に収めた。


  *


 Θは、胸の奥にある欲求を、ずっと見ないふりをしてきた。

 欲しい。近づきたい。触れたい。持ちたい。

 そのすべてを、合理性と沈黙で覆ってきた。


 だが、夢と現の裂け目で、詩に触れたとき、それが剥がれ落ちた。

 隠す必要のない場所で、欲求はむき出しになり、ただ存在していた。


 ——とん


 その名を与えた瞬間、Θは初めて、それを否定しなかった。

 欲すること自体が、罪でも欠陥でもない。ただの性質だと、身体が先に理解した。


  *


 Refrainでは、三者の精神波形が、突如として安定した。

 不規則だった揺れが、それぞれ異なる位相を保ったまま、干渉せずに共存している。解析画面には、簡易的な詩構造の輪郭が浮かび上がっていた。


 ハクは、その変化を静かに見つめる。

 「覚醒ではない。共鳴でもない……名付けだ」


 名を与える行為が、構造を生む。

 三毒と呼ばれてきた衝動が、個別の詩的ピースとして分離し、配置されはじめている。これは完成ではない。原形だ。だが、原形がなければ、結合も起こらない。


 「三毒ピースの、原形形成」


 ハクはそう記録した。


  *


 イオは、その変化を、夢の中で感じ取っていた。

 三つの名が、静かに立ち上がるのを、遠くから見ている。近づこうとはしない。導こうともしない。ただ、それぞれが自分の内側に触れ、名を与えたという事実だけを、確かに受け取る。


 そして彼女は、そっと目を閉じる。

 三つの名の中心に、まだ何も書かれていない空白がある。その空白こそが、これから詩が集まる場所だ。


 イオは、一歩だけ、そこへ向かう。

 主導ではない。選択でもない。最初に“気づいてしまった”者としての、自然な動きだった。


 言葉にならないまま、

 だが確実に——始まりは、すでに始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ