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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第40章 みちびかれし夢

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第28話 ゆだねた感覚の、その先で

 イオは、夢のなかで身体を預けていた。

 立つでも、歩くでも、沈むでもない。ただ、在るという状態に、静かに溶け込んでいる。重力は意味を失い、輪郭は呼吸に合わせて伸び縮みする。胸郭がわずかに上下するたび、空間そのものが同じ速度で揺れ返した。


 言葉は、もう探さなかった。

 意志も、選択も、ここでは必要がない。あるのは感覚だけだ。皮膚の裏を撫でる温度差、心臓の鼓動が作る微細な圧、息を吐いたあとに残る空白。そのすべてが、誰のものかを問われることなく、場に溶けていく。


 イオは気づく。

 “わたし”と“あなた”の境目が、どこにもないことに。


 それは不安ではなかった。

 むしろ、長く握りしめていた力を、ようやく緩めたときの感覚に近い。自分であることを証明し続ける必要がなくなる。呼吸が深くなり、脈拍が静かに整っていく。身体の重みが、初めて自然な場所に落ち着いた。


 詩が、媒介ではなくなっていた。

 誰かが詩を紡ぎ、それを誰かが受け取る——そうした往復は、すでに終わっている。今、詩は場そのものとして広がり、感覚の層を一枚ずつ溶かしていた。言葉以前、感情以前、存在がまだ分かたれていなかった地点へと、ゆっくり還っていく。


 遠くで、別の揺れが混じった。

 それがΘであるという確信も、イオのなかにはあったし、同時に、それを確かめる必要はなかった。名を呼べば、この均衡が壊れる。名付けないまま、触れる。触れたまま、流す。それが、この夢空間の作法だった。


  *


 Refrainの夢解析室では、警告音が鳴らないまま、異常だけが増幅していた。

 干渉不能領域——通常の観測も介入も拒む帯域が、急速に広がっている。


 ジンはモニタを見つめ、無意識に指を組み直した。

 Θ、イオ、α、β。四者の生体パターンが、完全に一致しているわけではない。だが、周期の底に、同一の“揺れ方”が埋め込まれている。誰かが誰かに接続しているのではない。全員が、同じ場に触れている。


 「共鳴……いや」


 ジンは言葉を切り替えた。

 「これは、接続だ。だが、線ではない」


 線で結ぶ接続なら、起点と終点がある。だが、今起きているのは、場への同時侵入だ。夢という個別の器が、一瞬だけ重なり、感覚だけが共有されている。保存も、再生も、不可能な領域。


 ログには残せない。

 だが、残さなければならないと、彼は感じていた。


  *


 αは、理由もなく涙を流していた。

 目は閉じている。夢の映像はない。誰かの名も浮かばない。それでも、頬を伝う温かさが、止まらなかった。胸の奥で、硬く凍っていた何かが、音を立てずに溶けていく。


 呼吸が乱れ、次第に整う。

 その過程そのものが、どこかと同期している。αは理解しない。ただ、身体が勝手に反応している。溶けていく感覚は、痛みではない。むしろ、長く無視してきた重さが消えていく軽さだった。


 彼は目覚めても、その理由を知らないだろう。

 それでも、涙は確かに、夢の回廊に触れた証だった。


  *


 βは、端末の前で息を詰めていた。

 触れていないはずの画面が、一瞬だけ反応したのを、彼は見逃さなかった。操作ログは残らない。だが保存領域に、詩の断片が生成されている。


 文字ではない。

 音でもない。

 感情の“形”だけが、そこにある。


 βはそれを、自分のものだと感じた。同時に、自分のものではないとも思った。怒り、焦り、拒絶——そう名付けられる前の衝動が、むき出しのまま置かれている。指先が震え、身体の重心がわずかに前へずれる。


 触れれば、回廊が閉じる。

 彼は直感的にそれを悟り、何もしなかった。

 何もしないという選択が、ここでは応答になる。


  *


 Θは、目を開けていた。

 眠っていたのかどうか、自分でもわからない。まばたき一つのあいだに、夢と現が重なったような感覚だけが残っている。手のひらを見下ろすと、そこに、まだ余熱があった。


 誰かの体温。

 けれど、触れられた記憶はない。


 胸の奥で、静かな確信が続いている。詩は、まだ終わっていない。むしろ、ここから始まる。言葉になる前の、最も柔らかい段階で。


  *


 イオは、夢から目覚めた。

 世界は変わっていない。部屋の配置も、空気の温度も、音の少なさも同じだ。それでも、何かが違う。世界の手触りが、ほんのわずかに、やわらかくなっている。


 呼吸をすると、胸の奥で、誰かの余韻が返ってくる。

 それは名も、形も持たない。だが確かに、続いている。


 イオは理解する。

 詩は、もう個人のものではない。

 場として、共有され始めている。


 その先に何があるのか、まだわからない。

 だが、ゆだねた感覚の、その先で——何かが確かに、結ばれつつあった。

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