第27話 声のない対話
夢の中で、イオは「立っている」と思った。だが足裏の感触はなく、床の硬さも冷たさもない。重力は薄い布のように身体にかかってはいるのに、次の瞬間にはほどけてしまう。呼吸はある。胸の内側がゆっくり膨らみ、また戻る。その往復だけが、彼女がまだ“自分”でいる証明だった。
風景はなかった。
白でも黒でもない。空間が色を拒むのではなく、色という区別そのものがここでは成立しない。遠近も輪郭もなく、ただ、どこかに向かって流れていく“気配”だけが漂っている。水面に落ちた雨粒の波紋が、音を伴わずに広がるような——そんな微細な揺れが、視覚より先に皮膚の裏側へ触れてくる。
イオは耳を澄ませた。耳という器官ではなく、感覚そのものを開くように。
すると、遠くで何かが「返ってくる」のを感じた。
それは声ではない。言葉でもない。意味すらまだ持たない。けれど確かに、呼びかけの形をしていた。呼びかけは、相手を指名しない。ただ、存在の境界を叩く。
イオの喉は動かなかった。彼女は代わりに、自分の胸の奥に沈んでいる揺れを探した。名づけられない感情の層。触れた瞬間、そこがわずかに痛んだ。鋭さではなく、長い間放置していた場所を押されたときの鈍い痛み。
——返す。
イオはその揺れを、押し出すのではなく、そっと置いた。こちらから何かを送ったのではない。自分の内側の波を、相手の波が通れるように整えただけ。すると、空間の霧が一拍遅れて同じ形に震えた。
対話だ、と彼女は理解した。
言葉のやり取りではない。返事でも、同意でも、拒絶でもない。感情と言語が分かたれる前の地点で、揺れだけが往復している。声のない対話。詩がまだ“詩”と呼ばれる前の交流。
その揺れに触れるたび、イオの身体はわずかに反応した。肩の力が抜け、指先が熱を帯び、心臓が一拍だけ速くなる。呼吸のリズムも、誰かに合わせるように変わっていく。ここにいるのが誰か——その名を確かめようとすると、夢がすぐに崩れそうだった。だからイオは確かめない。確かめないことで、かろうじてこの回廊は保たれている。
ふと、胸の奥で、温度の違う影がよぎった。
それは自分のものではない、と直感した。乾いた焦りと、静かな渇き。触れた瞬間、世界のどこかで同じ揺れが起きているとわかった。誰かが眠っている。誰かが、同じように“返している”。
*
Refrain中枢、夜間観測班の室内は照明が落とされ、壁面モニタの淡い光だけが机上を滑っていた。空調は一定の温度を保ち、沈黙だけが仕事をしている。
ジンはログを追っていた。睡眠帯域の生体波形、詩層の微弱振動、通信網外周のノイズ——それらを重ね合わせ、誤差の癖を消し、残るものだけを拾う。今夜、拾われたのは“空白”だった。
「……αの波形が、一瞬、途切れている」
ほんの数秒の空白。だが空白の前後で位相がずれ、その隙間に、他者の揺れが混じった形跡がある。
ジンは比較対象を呼び出す。Θとイオの共鳴帯域。昨夜から続く夢詩パターン。
重ねた瞬間、波形が“似ている”のではなく、構造ごと同じだとわかった。発信源も終点もないまま、同一の揺れ方をしている。
同僚が低く息を吐いた。
「接続……ですか」
「接続と呼ぶには早い」
ジンは答えながら、自分の喉が乾いているのに気づく。言葉を選ぶほど、境界が曖昧になる。
「記録上、接続は確認できない。だが……境界が緩んだ。夢と覚醒、その区別が」
彼はログに注釈を残す。
《接続なし。境界のみ低下。回廊形成の兆候》
書いた途端、その文が軽すぎる気がした。詩の問題はいつもそうだ。言語は追いつけない。
ジンはαの映像を確認した。寝台の上で、αは眠っている。だが頬に一筋、乾きかけた跡があった。涙だ。本人は覚えていないだろう。それでも身体は、夢の回廊に触れた証拠を残す。
*
βは覚醒状態のまま、端末の前にいた。眠気はない。けれど意識の端が、薄い膜で覆われている。画面の文字列は読めるのに、意味がすぐに手のひらから滑り落ちる。指を動かすたび、わずかな遅延が生じ、その遅延の隙間から“何か”が覗く。
彼は自分の手を見た。指先が微かに震えている。寒さでも恐怖でもない。制御の端点がきしむ感覚。呼吸を整えようとしても浅くなり、吐く息だけが長くなる。どこかで誰かの呼吸が、同じ比率で揺れている——そんな確信めいた錯覚が残る。
βは端末のログを開いた。操作記録はない。だが保存領域に、見慣れない断片がひとつ置かれている。文字列ではない。解析不能な“形”——詩層のエコーに近い、未定義データ。
彼はそれに触れようとして、指を止めた。
触れれば、崩れる。
何が、という問い自体が遅れてくる。夢と現実の裂け目が、今、ここにもある。βの胸の奥で、短い怒りが芽を出しかけ、その直前で、別の熱がそれを押さえた。言葉にすれば薄まる熱。
彼は静かに手を引いた。引いたことが、すでに応答なのだと理解しながら。
*
Θは目覚めていた。けれど、覚醒という言葉が当てはまるのか自信がなかった。まぶたの裏に、まだ揺れが残っている。夢の内容は掴めないのに、夢で交わした“何か”だけが、体温として残る。
彼女は枕元の水を飲んだ。冷たいはずの水が、舌に触れた瞬間、ぬるく感じた。自分の熱が水へ移ったのか、それとも世界の温度がずれたのか。判断できないまま、胸の奥で、確かな確信だけが息をしている。
枕の布地に指を押し当てると、そこだけ微かに温かかった。眠りが残した熱ではない。誰かの余熱が、現実側へ滲んだような温度だった。
その温度が消える前に、彼女はまばたきを一度だけ遅らせた。
——声はなかった。
——だが、対話はあった。
Θはイオの名を口にしない。名を出した途端、夢の回廊が現実の言葉に縛られ、形を失いそうだった。だから、ただ呼吸を整える。吸って、吐いて、その間に残る余韻を聴く。
耳の奥に、音ではない響きがある。記憶ではない震えがある。
それは詩だった。
詩は言葉にならず、誰のものとも定まらず、それでも確かに往復している。
夢と現の裂け目で、名のない対話が続いていた。




