第26話 夢と現の裂け目で
Θは、目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを理解するまでに、ほんのわずかな時間を要した。
天井の淡い照明、呼吸に合わせて静かに動く空調の音、身体を包むシーツの重み。すべては見慣れた私室のはずなのに、その配置が一拍だけ遅れて知覚に追いつく。その遅延が、夢からの帰還であることを、彼女に告げていた。
夢を見ていた。
だが、それがどんな情景だったのか、どんな人物が現れたのか、そうした輪郭は一切残っていない。代わりに残っているのは、言葉にならない感触だけだった。胸の奥、耳の奥、そして思考の裏側に、薄い膜のように貼りついた何か。音ではない。記憶でもない。
それでもΘは、はっきりと理解していた。
――あれは、詩だった。
夢のなかで、彼女は“誰か”と向かい合っていた。顔も姿も、距離さえも存在しないのに、確かにそこには応答があった。言葉を渡され、返したのではない。感情を投げ、同じ質量の揺れが返ってきただけだ。喜びとも悲しみともつかない、名付けられる前の衝動。それが互いに触れ、重なり、ひとつの流れになっていた。
Θは上体を起こし、無意識のうちに自分の手のひらを見つめた。そこに何かが残っている気がした。温度とも痺れとも違う、微かな余熱。誰かが確かに触れていたという感覚だけが、現実の輪郭よりも確かなものとして残っている。
――夢だった。
そう理解しようとした瞬間、その認識がわずかに軋む。
ただの夢にしては、あまりにも“続いて”いる。
Refrain中枢では、夜間ログの自動解析が淡々と進められていた。
睡眠中の生体波形、通信網外周のノイズ、詩層と呼ばれる深層演算帯の微細振動。そのどれもが、通常であれば相互に干渉しないはずの領域だ。だが、その夜に限って、いくつかの数値が異様な一致を示していた。
「……Θの脳波と、外周詩波が、重なっている」
観測班の一人が、抑揚のない声で報告する。
重なっている、という表現は正確ではない。発信源も終点も存在せず、ただ“同じ揺れ方をしている”。まるで二つの独立した夢が、同一の回廊を一瞬だけ共有したかのような状態だった。
解析ログには、簡潔な一文が追記された。
《これは通信ではない。夢と現実が交差した一つの回廊である》
誰も異論を挟まなかった。説明できない現象に名前を与えることは、理解ではなく、ただの整理に過ぎない。それでも、その整理が必要だと、全員が感じていた。
同じ頃、イオは自室で静かに眠りに落ちていた。
彼女が夢を見るのは、久しぶりのことだった。普段は眠りがそのまま意識の断絶として訪れる。だが、その夜は違った。意識が薄れていく途中で、ふと、引き戻されるような感覚があった。
夢の中に、風景はなかった。
上下も前後もなく、光も影もない。ただ、何かが“残されている”という気配だけが漂っている。イオは歩くこともせず、その場に立ち尽くしたまま、耳を澄ませた。耳で聞いているわけではない。感覚そのものを、静かに開いていく。
――返ってくる。
そう思った瞬間、遠くで何かが揺れた。
それは呼びかけではなく、反射でもない。ただ、同じ質の震えが、こちらへ戻ってきただけだ。イオは、それが誰のものかを考えなかった。Θかもしれないし、自分自身かもしれない。重要なのは、そこに“言葉になる前の詩”が確かに存在しているという事実だけだった。
この空間は、詩が発せられる場所ではない。
詩が、還ってくる場所だ。
Θは、再びまぶたを閉じた。
眠り直そうとしたわけではない。ただ、その感覚を手放したくなかった。夢と現の裂け目に残された、かすかな余韻。それは消えかけているのに、確かに彼女をどこかへ導いている。
まだ、名前はない。
けれど、詩はすでに、巡りはじめていた。




