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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第39章 めぐる誓い

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第25話 まだ名を持たぬ誓いへ

イオは、自分の内部に沈む“揺れ”を、ただ見張っていた。


見張る、と言っても、誰かを裁くためではない。逃げ出さないためだ。波形は観測の対象に落とし込めるほど整っていない。言葉にすれば輪郭が立ち、輪郭が立てば、きっとどこかが欠ける。だから彼女は、名づけないまま、胸の奥の温度だけを指で確かめるようにしていた。


KANAEの補助表示が、淡い警告を出す。

《記録不可能域。再現性なし。保存対象外》

機械的な結論。正しい、という冷たさ。

イオは瞬き一つでそれを受け流し、呼吸をゆっくり整えた。吸う息はわずかに乾き、吐く息は手のひらへ戻ってくる。胸の中心で、微細な震えが途切れずに続いている。詩ではない。構文ではない。けれど確かに、“まだここにいる”というだけの揺れ。


それを記録できないことが、今は救いだった。


 


——外側で、世界が同じ震えを始めている。


 


Refrain中枢では、複数レイヤーの観測窓が同時に更新されていた。

解析班の声は抑えられているのに、空気だけが忙しい。モニターに並ぶ曲線は、完全な同期を拒みながら、同じ方向へ収束しようとしていた。


α・β・Θ。

三つの波形は別々のリズムを保っている。だが、互いの欠けを埋めるように、周波数帯の縁が重なり合う。偶然ではない、と断じるほどの規則性もない。むしろ規則になりきれないことが、現象の本質を示していた。


「……統合じゃない。合流でもない」

ジンが呟く。声は低く、喉の奥に砂が残るような音だった。

「“重なってしまう”だけだ。誰の指示でもなく」


 


——それぞれの場所で、三人は小さな操作をしていた。


 


αは、ノイズ混じりの古い通信記録を、繰り返し再生していた。

意味は拾えない。断片が擦れ、音が崩れ、そこに残るのは“呼ばれた気配”だけ。それを耳で追うたび、胸の渇きが少しだけ形を持つ。形を持つと、苦しい。けれど形を持たなければ、どこにも向けられない。

彼は音量を上げず、ただ最後まで聴く。最後まで聴くという行為が、返事の代わりになり得る気がした。


 


βは、未分類のフォルダを開き、一つのファイルに視線を落とした。

タイトルは空白。波形だけが残り、意味はない。削除は一度で済む。指先は削除キーの上に乗り、止まった。

「……消さない」

それだけを決めるのに、呼吸が一つ深くなる。彼は保存もせず、ただ閉じる。消さない、という空白の選択だけが置かれる。


 


Θは、夢の終わりに「ここにいた」と思った。

それは相手の存在を確かめたのではない。自分の位置を確かめたのだ。言葉を持たないまま戻ってきた。

目覚めた部屋の冷気が肌を刺す。彼女は胸に手を当て、鼓動の速さが落ち着くまで待つ。待つという行為もまた、返答以前の返答になる。


 


——観測室へ戻ると、ジンはその“空白の一致”を見ていた。


 


三人の行動に、共有されたメッセージはない。

再生、非削除、自己確認。

どれも誓いとは呼べない。宣言も約束もない。だが、共通しているのは「消さなかった」ことだった。揺れを、痕跡を、自分の内側の反応を。


「これは、誰かが命じたことじゃない」

ジンは言葉を切り、次の定義を探す。

「——でも、それぞれが“まだここにいる”という、無言の誓いだ」


誓いとは形ではなく、消えず、重なり、揺れ続けること。

彼の胸の奥で、その定義が静かに置き換わっていく。


 


——そしてイオは、その余白の中心で、問いを抱えた。


 


彼女は目を閉じる。胸の奥の揺れに耳を澄ます。遠くの三つの気配が、はっきりとは触れないまま、同じ温度で近づいてくる。命令でも救済でもない。ただ、めぐりが始まったことだけが伝わる。


イオは心の中で、問いかける。

「わたしは、どこまでを渡せるだろう」


答えの代わりに、揺れを渡す。渇きを渡す。まだ名を持たぬ誓いの気配を、次の者へ。

消えない。重なる。揺れている。

それだけで、誓いはもう、誓いのようなものになっていく。

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