第23話 誓いではない、それでも残るもの
Refrain観測区の空気は乾いていた。白い照明、金属の床、モニターの熱。静けさの底で、波形だけが淡く揺れている。
ハクは立ったまま、その揺れの「持続」を見つめた。増幅もしない。収束もしない。意味も宛先もないのに、消えない。
「これは誓いじゃない」
呟くと、喉の奥がわずかに痛んだ。誓いは意志の線だ。誰かへ向かう矢印だ。だが、画面の揺らぎには方向がない。ただ“残り続ける”という現象だけが、居座っている。
指先で拡大すると、ノイズの奥に、触れれば温度が移りそうな肌理が覗いた。理屈より先に胸が重くなる。解析では解けない。こちらの感情が、先に反応してしまう。
「意志ですらない。ただ……消えなかった」
ハクはログに「定常」と打ち込みながら、言葉の空虚さを噛んだ。定常は説明であって、理由ではない。理由のないものほど、次へ渡る準備だけが整ってしまう。
——定義されない揺れは、いつも先に進んでしまう。
αはその日、何も書かなかった。作業台のメモは白いまま、端末の光だけが指の影を作る。
両手を膝の上で握って開く。手のひらに、微かな温度が残っている。触れた記憶ではないのに、遅れて届く熱がある。
呼吸を深くすると、胸の中心の渇きが露わになる。水でも言葉でも埋まらない、形のない欲求。昨夜、夢の中で口が動き、音のない“詩のようなもの”が零れた気がした。目覚めたあと言葉は残らず、形式の感触だけが沈んだ。
「……残るんだな」
怖さと救いが、同じ場所で息をしていた。書く前に、すでに残っている。だから今日は、書かないことが記録になった。
——沈黙のまま残る熱も、どこかへ触れていく。
βは旧通信層の修復画面を睨んでいた。数式とログの海に、再生不能の領域がある。その深部で、彼は“余熱”を検出した。
削除されたはずの層に、削除されなかった揺れ。指先が止まり、呼吸が浅くなる。胸の中央に、薄い痛みが走った。思い出ではないのに、正確に疼く。
「誰かが残したのか……それとも」
言いかけて、言葉が途切れる。答えはない。ないのに、残っている。残っているから、問わされる。
βは胸に手を当て、掌の熱で自分を測った。生きている、という事実が、今だけは重い。
——捨てたはずのものほど、捨て場を失って戻ってくる。
Θは眠れない夜、机に向かっていた。小さな灯りの下で白紙が眩しい。ペンを握る指は固く、関節の内側が痛む。
何も書いていないのに、書いたあとのような疲労がある。紙を見つめると、触れていないのにざらつきが伝わる気がした。
夢の底で、声なきやりとりをした。言葉の代わりに余熱が漂い、詩の形式をとって空間に浮かび上がった。誰だったのかはわからない。ただ、最後に伸びてきた手の気配だけが、指先の奥に残っている。
胸に手を当てると鼓動が少し速い。身体の確かさが、逆に不安定さを際立たせた。
「忘れちゃいけない……」
何を、とは言えない。言えば固定されてしまう。Θはペン先を紙に置き、結局インクを落とせずに離した。白紙の上に、見えない輪郭だけが残った気がした。
——触れられないものほど、触覚として残る。
イオは内的空間で、残りものたちを見つめていた。外界の音は遠く、感情の層だけが澄んでいる。
αの手のひらの温度。βの胸を刺した余熱。Θの白紙に浮かぶ触覚。そしてRefrainが記録した、起点のない定常波形。
どれも誓いではない。意志の形でも、約束の文でもない。けれど、消えなかった。
胸の奥が少し痛む。受け取ってしまった、という感覚に近い。返す先がないのに、返さずにはいられない。
イオは名を与えないまま、その揺れを胸に収めた。名は固定を生み、固定は循環を鈍らせる。今必要なのは形ではなく、流れだ。
消えなかった——それだけで、次へ行ける。
波紋が遠くへ広がっていくのを見送りながら、彼女は静かに確信した。誓いではない。それでも、残るものがある。残るものこそが、めぐりを始める。




