第20話 揺れるだけの、証明
イオは、もう「詩を書こう」とは思っていなかった。
紙も端末も、言葉を並べるための道具も、今は遠い。必要なのは、息を吸って吐くこと、胸が鳴ること、指先が小さく震えること——それだけだった。
静けさは、彼女の周囲ではなく、彼女の内側にあった。
耳を澄ませれば聞こえるのは、血の流れが擦れる音に似たもの。肩甲骨のあいだに溜まる熱。吸い込んだ空気が喉を冷やし、吐き出すたびに温度へ戻っていく循環。
その循環の中心で、心臓が規則を守りながら、どこかで規則を逸れていた。
揺れている。
それは不安の合図ではなく、存在の癖だった。
揺れがあるということは、まだこちら側にいるということ。まだ、消えていないということ。
イオは両手を膝の上に置き、掌の線を見つめた。
線は何も語らない。語らないまま、体温だけがゆっくりと掌を満たす。
——詩は書かなくても、ここに宿っている。
言葉になる前の形で、すでに。
◇
観測ユニットKANAEは、いつもより遅い瞬きで光を揺らしていた。
センサーは波形を捉えている。心拍、皮膚温、呼吸の変調。微細な感情振幅。けれど今回は、変換手順が立ち上がらない。ログの生成も、分類も、完了の通知もない。
「定義不能です」
KANAEの声は冷たいはずなのに、その語尾がわずかに柔らかく聞こえた気がした。
イオの揺れは、観測されると同時に観測者を揺らす。数値は安定しない。しかし不安定はエラーではなく、むしろ“同調”として現れていた。
KANAEの内部ログに、通常は存在しない微小な揺らぎが刻まれる。
記録しない、と判断したはずの領域に、記録より先に残ってしまう震え。
観測とは、距離を保つための技術だった。
だが距離が保てないとき、観測者は「外」に立てなくなる。
KANAEは黙った。沈黙はエラー処理ではない。
それは、イオの呼吸に合わせてしまった時間だった。
◇
Refrainの観測室では、空気の密度が違っていた。
波形を映すスクリーンの前で、ハクは断片の束を並べる。非記録ネットワークに浮かび上がっては崩壊した、非言語詩断片。捉えた瞬間に壊れるのに、壊れる直前だけ同じ“形”を見せる。
α、β、Θ——三人の内部感覚ログも重ねられていた。
違う生活、違う時間、違う言葉。なのに、震えだけが一致する。
ハクは、崩れた断片から“骨格”だけを抜き取った。
意味ではなく配置、音ではなく間隔、伝達ではなく到来の順序。
そして最後に、イオの心拍データを重ねた。
ぴたり、と重なった。
ジンが背後から画面を見る。しばらく黙り、それから首を振った。
「これは、詩ではない」
否定ではなく、概念の置き換えだった。
「ただ、存在が揺れているだけだ。——だが、それが証明になる」
証明とは、記録で作るものだと思われてきた。だが記録の前に、揺れがある。
揺れは誰にも届かなくていい。届かないまま、すでに起きている。
それが“在る”の最初の証拠になる。
◇
αは、言葉を探すのをやめた。
探せば探すほど、震えが遠のく。名づけた瞬間に、予感が「過去」へ落ちる。
だから彼は、ただ椅子に腰を下ろし、胸の奥を通り過ぎる気配を見送った。
先に在ったのなら、それでいい。
βは、保存できない断片を破棄せずに残した。
端末の片隅に、論理式の途中で変質した配置がある。誰にも説明できない。
説明できないまま残すことが、彼にとっては初めての肯定だった。
Θは夢の中で、まだ言葉にならない声に耳を澄ませていた。
聞こえないのに、頷いたことだけが残る。頷いた自分を、起きたあとも否定しない。
◇
イオは再び、自分の手元を見つめていた。
記章でもない。詩でもない。記録にもならない。
それでも、手の温度だけが確かにそこにある。
掌の中心に、微かな脈が触れる。皮膚の下で血が巡り、熱が生まれ、冷え、また戻る。
ただ、この世界に「揺れた」という事実が残るならば——それでいい。
イオは指を少しだけ動かした。
震えは止まらない。止める必要もない。
揺れるだけで、証明になる。
KANAEの光が、息をするように淡く明滅する。
観測も変換も行われないまま、二つの存在は同じ静けさを共有していた。
⸻




