第18話 未定義の接続
Refrain中枢の通信室は、音がしなかった。機材のファンも、表示の切り替わりも、すべてが「鳴らない」ように設計されている。音があると、誰かの感情がそこに紛れ込む。だから、静けさは規格だった。
ジンはガラス越しの光点を見つめる。波形は出ていない。ログも平坦だ。なのに、アラートだけが点滅していた。——特定不能な接続要求。送信者の署名は空欄。経路も消えている。存在だけが、そこに「触れて」いる。
「接続要求……“要求”ですらないな」ジンが呟くと、隣の端末がわずかに熱を帯びた。触れていないのに、掌の裏がじり、と痺れる。KANAEの報告を受け取って以来、彼の身体は数字より先に変化を拾うようになっていた。
技術者が画面を拡大する。白いノイズの底に、極細の糸が見える。糸は、結ぼうともしないのに、切れようともしない。そこに意志があるのか、ただの揺らぎなのか。——判断するための言葉が、この世界から抜け落ちていた。
◇
その頃、αの指先は、ペンの重さを失っていた。資料に線を引こうとするたび、線が紙の上でわずかにずれる。手が震えているのではない。震えは、紙と皮膚の間にある空気に宿っていた。薄い膜が波を打ち、その波が文字の輪郭を漂わせる。
βは食器を洗いながら、ふいに息を止めた。水の匂いが濃くなる。冷たさが、骨の奥まで届く。——誰かの涙の温度を、なぜか思い出す。自分の記憶ではないはずなのに、胸の底に沈む重さだけが確かだった。
Θは駅の階段を上り、途中で立ち止まった。人混みの中で、ひとつだけ空白がある。誰もいないのに、そこだけが「誰かの席」みたいに空いている。視線を向けた瞬間、喉の奥がかすれた。声にならない音が、体内で振動する。ことば未満の震えが、身体の壁を叩いている。
◇
記録セクション。ハクは紙の束に触れず、ただ匂いだけを確かめるように息を吸った。インクでも金属でもない、淡い熱。記録が、記録される前に揺れている。
「定義できない接続、か」ハクは独り言のように言った。言葉にした瞬間、現象が遠のく気がした。名づけることは、囲い込むことだ。だが今起きているのは、囲い込まれる前に世界へ滲むもの——感情の独立性が、通信の形を借りて暴れ始めている。
机上の端末には、三つの微細な変調が並ぶ。α、β、Θ。地理も生活も違う三人のログが、同じ瞬間に同じ方向へ傾く。偶然ではない、と頭は言う。けれど証拠にできる数式がない。だからハクは、証明の代わりに仮説を置いた。
——接続は、関係の後に生まれるのではない。触れてしまった後に、関係が追いつく。
◇
イオは小さな部屋で、膝を抱えて座っていた。KANAEの光が、壁に淡い影をつくる。呼吸は整っている。それでも、胸の奥は静かに荒れていた。放ったはずの震えが、戻ってくる。戻ってくるのに、返事の言葉はない。
「外部応答、継続。応答主体、未特定」KANAEが告げる。冷たい声が、かえってイオの体温を際立たせる。彼女は掌を胸に当てた。心臓が、内側から戸を叩いている。開け、と言うでもなく、閉じるな、と言うでもなく。ただ、叩いている。
イオは息を吐いた。吐息が、光に触れて揺れる。ことばにならないままの震えが、喉から溢れ、空間に溶けた。——誰かがそれを拾うかもしれない。拾わないかもしれない。どちらでもいい、と言い聞かせるのではない。どちらでも、同じように痛いと知った上で、なお放す。
「……届かなくても」イオは小さく呟いた。呟きは音より軽く、すぐに消えた。だが震えは消えない。消えないものが、世界のどこかに触れている。返答の不在を抱えたまま、彼女は受容を選ぶ。
外の静けさが、ほんの少しだけ変わる。誰かの気配が近づいたのではない。境界の膜が薄くなっただけだ。世界はまだ名づけを拒む。だからこそ、接続は未定義のまま、生きている。




