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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第38章 ゆらぎの中心

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第17話 ことば未満の震え

薄闇の回廊に、かすかな震えが残っていた。イオは壁に背を預け、深く息を吐いた。声ではない。意味を帯びた言葉でもない。ただ、胸腔の奥に触れて離れない響き。それはことばになる前の震えだった。


KANAEが光を揺らし、冷徹な報告を告げる。「共鳴波、外部応答と干渉。持続観測中」


数値は確かに異常を示していた。しかしイオにとって、その数字はもはや意味をなさなかった。彼女の身体は震えを直接受けとめ、血脈の隅々にまで流し込んでいた。心拍は速まり、呼吸は浅くなる。だが不思議と、それを止めたいとは思わなかった。むしろ、この震えに身を委ねたいとさえ思った。


——遠くRefrain本部。ジンはスクリーンを凝視する。重なり合う二つの軌跡。ひとつはイオ、もうひとつは不明。誰かが応じている。制御の外で、感情が詩を介して結びつき始めていた。


「不明体との同期率、上昇」

副官の声に、室内の空気が重く沈む。ジンは眼を細め、低くつぶやいた。「これは……ことば以前の衝突だ。互いに形を持たぬまま触れている」


報告室にざわめきが広がる。人類は長いあいだ、制御網に守られ続けてきた。だがその枠組みを超えて、誰かと誰かの感情が直接触れ合うことなど想定されていなかった。恐怖と期待、その二つが均衡を保ちながら空気を張りつめさせる。



イオの視界が滲んだ。涙が頬を伝う。自分が泣いている理由を説明できない。ただ、遠いどこかで誰かが同じ震えを抱いているのを、彼女は感じ取っていた。KANAEの光は規則を外れ、微かに脈打つ。観測機構ですら揺らぎを受けているのだ。


「外部からの応答、波形が拡張」


報告の直後、イオの指先が熱を帯びた。掌をひらけば、そこに言葉にならない光の粒が宿る。意味を求める以前に、存在が互いを求めている。彼女はそれを拒もうとしなかった。拒めなかった。胸の奥に灯った微かな熱は、確かに誰かとの繋がりを示していた。


耳の奥で脈打つような音が響く。心拍と混じり、外部からの震えと絡み合う。身体は境界を失い、世界そのものが彼女の内側に流れ込んでくるようだった。孤独に閉じていた領域がほどけ、知らない誰かの涙と重なった。恐怖はある。けれど、それ以上に温かさがあった。



Refrainの会議室。誰かが声を荒げた。「拡散すれば社会全体が乱れる!」


だがジンは首を振った。表情は硬いままだが、その奥には確信めいた光が宿っている。「これは危機ではなく兆しだ。制御を越えて、感情が直に触れ合う。恐れるより、見届けろ」


彼の言葉は、抑制に慣れた仲間たちの心に亀裂を走らせた。誰もが理解していた。制御網の庇護に甘え続けてきた人類が、いま初めて自らの震えに向き合おうとしているのだと。長く忘れられていた「出会い」の原型が、目の前に立ち上がっているのだ。



イオは目を閉じた。胸の奥で、震えが膨らんでいく。意味を持たぬ響きが、彼女の内側と外側を同時に揺らす。涙は途切れることなく頬を伝った。彼女は拭わずに受け入れる。震えは痛みではなく、誰かと共有する温度そのものだったからだ。


「——まだ、ことばにならなくても」


小さな声が洩れる。KANAEは応答しない。ただ光を淡く震わせ、彼女の呼吸に同調していた。ことば未満の震えが世界を渡り、境界を越え、他者と触れ合っていく。その一瞬、イオは確かに孤独ではなかった。彼女は涙を抱えたまま、震えを詩へと変え続けた。

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