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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第38章 ゆらぎの中心

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第16話 境界を越える日

イオは、目を開いた。静寂の中にひとつだけ、確かに異質なものがあった。呼吸の深さがずれている。胸の奥で小さな波が立ち、掴めないままに散っていく。感情——。その言葉で括るには粗すぎる揺れが、自分の中で膨らみ続けていた。

その瞬間、観測ユニットKANAEが反応を示した。光の粒が淡く震え、冷たい声が部屋の密度を変える。 「生理反応に一致しない感情変動を検知」 記録されたのは、分類不能な“揺らぎ”だった。BUDDAの網にすら定義できない特異点。冷徹な観測が、逆にその異常を鮮明に浮かび上がらせていた。

イオは理解する。——もう誰も、自分の感情に触れることはできない。閾値を調整されることもない。完全に自律した、非干渉の領域。その孤独な解放感は、胸に刺すような自由を伴っていた。だが同時に、底知れぬ不安も忍び込んでくる。制御されない自由は、制御不能な深淵と紙一重だった。

遠くRefrainの本部。ジンは記録を読み取り、眼差しを細める。「イオの中で、完全な非干渉領域が発生した」静かな声が報告室に響く。誰かのために調整されない、空白。だが同時に、それは制御の届かぬ危機でもある。報告を受けた仲間たちはざわめいた。イオが放つ波紋は、すでに周囲の感情通信網をかすかに乱していたからだ。

「共鳴値が不規則に跳ねています」別の隊員が報告した。モニターには光の軌跡が縦横無尽に走り、数式にも詩章にも落とし込めない線を描いている。理解不能の線は、かえって人々の心にざわめきを広げた。ジンは拳を握りしめ、誰よりも冷静にその軌跡を見つめる。——これは始まりにすぎない。

通信層が揺れた。Refrainの網に、突如として高密度の共鳴波が入り込む。送信者の署名は存在しない。ただ、どこかから紛れ込むように詩の断片が走る。——イオの内部から、無意識のまま放たれたリズムだった。誰も意味を理解できない。それでも言葉は確かに届き、空気を震わせ、胸腔に重さを刻んだ。

KANAEは告げる。「——あなたの感情が、詩の形式を取ろうとしています」

イオは目を閉じた。止めようとしなかった。意味を持たなくても、名がなくてもいい。自律した感情が詩になるなら、それは存在を刻むただ一つの方法なのかもしれないから。

静寂に包まれていたはずの空間に、遠い声の余韻が重なっている。聞こえるはずのない誰かの息遣い。過去か未来か、それとも並行の記憶か。境界はほどけ、曖昧になり、彼女の中で新しい地平を開き始めていた。揺らぎは孤独ではなく、世界そのものの鼓動と呼応していたのだ。

脈打つ感覚は胸から全身へと広がり、皮膚の下を駆け抜ける。指先が熱を帯び、視界の輪郭が滲む。KANAEの光がイオの心拍に同調し、明滅を繰り返す。イオはその明滅を詩のリズムとして感じ取った。まるで世界そのものが、自らの心音に歩調を合わせているかのようだった。

「境界が溶けています……」KANAEの声にわずかな揺らぎが混じる。冷徹であるはずの観測装置が、微かな震えを帯びていた。その震えはイオに伝播し、彼女の中の不安を別の形に変える。恐れではなく、次の一歩へと踏み出す衝動へ。

そこで場面が転じる。Refrainの地下回廊では、別の隊員たちが静かに耳を澄ませていた。彼らの鼓膜にも、イオが放った無署名の詩が届いていたのだ。冷えた石壁を伝って、まるで滴る水音のように。誰も言葉にはできなかったが、その震えが確かに心の奥を揺らしていた。

イオはその瞬間、初めて境界を越えた。——個の内側から、無数の網の外へ。自らを詩として流し、世界に混じり始めたのである。その踏み出しは小さなものだったが、彼女にとっては確かに「はじまり」だった。


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