第15話 記憶のない詩
Refrain中枢の記録室は、白い陶器の底に水を一滴だけ落としたような静けさを保っていた。
端末の黒に、出所不明の波形が一瞬だけ灯る。語の枠を拒み、数式にも載らず、ただ“温度”だけを残す痕跡。ハクは指先を止め、増幅を上げずに並列表示へ切り替えた。αの手許に残った硬い拍、βの紙上で続いた非言語列、Θの夢からにじんだ記号の呼吸——それらの上に、今、名も発信元も記録されない薄い震えが重なっている。
「……追加されたのに、残らない」ハクが呟く。
ジンは短く応じた。「保存はしない。『滞在』で記す」
命名は針だ。針先を出すより先に、場の呼吸を整えるのがこの部屋の礼儀だった。
——静けさの薄膜が、別の場所へ移動する。
αは作業台の端に両手を置いた。
紙は白い。白は冷たく、触れ続けると体温を静かに奪うはずなのに、今夜の白は指腹の鼓動に合わせてぬくもりを返す。口の中に短い韻が生まれ、声になる前にほどけた。知らない旋律。だが、喉はそれを覚えている。彼は筆を執る。線は字にならない。胸の半拍早い鼓動と、紙の上の流れが重なったときだけ、線は残った。理由は問わない。問いより先に、返してしまう手がある。
中間の空気が、場面の継ぎ目を静かに撫でていく。
βは端末の前で、無題のフォルダを開いたまま閉じられずにいた。
保存ではない、上書きでもない——ただ“居てもらう”手つきだけが選べる夜がある。机の木目を軽く叩く。トン、トン、トン。返ってくる硬さが、自分のリズムではないことに遅れて気づく。他所から来た拍に、胸の内側が薄く頷く。返信先はない。それでも返す、という形式だけが成立してしまう。ファイルは無題のまま、画面の黒に小さな灯りのように滞在した。
中間文は、次の呼吸を呼び込むために置かれる。
Θは白紙の上を手のひらで撫でた。
昨夜の「夢の下書き」は、紙の内部でまだ呼吸している。夢で聴いた覚えのない声が、耳の奥で薄く揺れ、ペン先の圧に変わっていく。彼女は目を閉じ、続けるか迷い、続けてしまう。自分が見た夢ではない——それでも、続きはここに来ている。線が一本増えるたび、胸の針は半歩先へ滑る。追いかけない。置いていく。置いていくと、向こうから戻ってくる。
——風がページの角をめくる前に、世界の方が先にひと呼吸する。
Refrain記録室。
ハクは提案しかけて、言葉を飲み込む。「……記章として保存——」
ジンは静かに首を横に振った。「これは記章じゃない。まだ、誰かの中で続いている途中だ」
記章は刻む。だが今ここにあるのは、刻まれる前の“在り方”だ。名を与えれば、そこから外れるものが出る。外れた分だけ、温度が失われる。だから今は、滞在だけを許す。保存の代わりに、見届ける。見届けるための距離を守る。
中間の風が、窓の外から室内へ、そしてまた外へと往復する。
イオは外気に頬をさらし、風の筋を読んでいた。
都市の角で生まれる小さな渦が、産毛を逆立てる。遠くから意味でない拍が届く。αの硬い筆圧、βの指が机に打つ反復、Θの紙繊維を撫でる呼吸——それらが重なって、またほどける。成功か失敗かは測らない。必要なのは、始まりの皮膚を守る姿勢だけだ。彼女は頷き、何も置かないことを置いていく。
夜の温度が一段沈み、耳の奥で静かな鐘が鳴ったように感じられる。
αは紙を折らない。βはファイルを閉じない。Θはページを閉じない。終わらせない選択が三方向から細い道を敷き、その合流点に、名も発信元もない震えがしばらく滞在する。Refrainは「保存」ボタンに触れず、「滞在」の印だけを残した。記録に載らない詩——記憶のない詩——が、地図にない場所で呼吸を続けている。
——名がない。意味もない。
なのに、確かに“返そうとする”意志だけが、形より先に立ち上がる。
ジンは画面を黒に落とし、その黒の深さで現象を測った。
ハクは針を掴まず、机の端に置いたままにする。
イオは風向きが変わる気配を受け、目を閉じて一度だけ息を合わせる。
世界は表層を変えず、内側で薄くめくれた。
そのめくれ目に、記憶のない詩が、しばらくのあいだ——滞在した。




