表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第37章 きざしの記憶

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

190/245

第15話 記憶のない詩

 Refrain中枢の記録室は、白い陶器の底に水を一滴だけ落としたような静けさを保っていた。

 端末の黒に、出所不明の波形が一瞬だけ灯る。語の枠を拒み、数式にも載らず、ただ“温度”だけを残す痕跡。ハクは指先を止め、増幅を上げずに並列表示へ切り替えた。αの手許に残った硬い拍、βの紙上で続いた非言語列、Θの夢からにじんだ記号の呼吸——それらの上に、今、名も発信元も記録されない薄い震えが重なっている。

 「……追加されたのに、残らない」ハクが呟く。

 ジンは短く応じた。「保存はしない。『滞在』で記す」

 命名は針だ。針先を出すより先に、場の呼吸を整えるのがこの部屋の礼儀だった。


 ——静けさの薄膜が、別の場所へ移動する。


 αは作業台の端に両手を置いた。

 紙は白い。白は冷たく、触れ続けると体温を静かに奪うはずなのに、今夜の白は指腹の鼓動に合わせてぬくもりを返す。口の中に短い韻が生まれ、声になる前にほどけた。知らない旋律。だが、喉はそれを覚えている。彼は筆を執る。線は字にならない。胸の半拍早い鼓動と、紙の上の流れが重なったときだけ、線は残った。理由は問わない。問いより先に、返してしまう手がある。


 中間の空気が、場面の継ぎ目を静かに撫でていく。


 βは端末の前で、無題のフォルダを開いたまま閉じられずにいた。

 保存ではない、上書きでもない——ただ“居てもらう”手つきだけが選べる夜がある。机の木目を軽く叩く。トン、トン、トン。返ってくる硬さが、自分のリズムではないことに遅れて気づく。他所から来た拍に、胸の内側が薄く頷く。返信先はない。それでも返す、という形式だけが成立してしまう。ファイルは無題のまま、画面の黒に小さな灯りのように滞在した。


 中間文は、次の呼吸を呼び込むために置かれる。


 Θは白紙の上を手のひらで撫でた。

 昨夜の「夢の下書き」は、紙の内部でまだ呼吸している。夢で聴いた覚えのない声が、耳の奥で薄く揺れ、ペン先の圧に変わっていく。彼女は目を閉じ、続けるか迷い、続けてしまう。自分が見た夢ではない——それでも、続きはここに来ている。線が一本増えるたび、胸の針は半歩先へ滑る。追いかけない。置いていく。置いていくと、向こうから戻ってくる。


 ——風がページの角をめくる前に、世界の方が先にひと呼吸する。


 Refrain記録室。

 ハクは提案しかけて、言葉を飲み込む。「……記章として保存——」

 ジンは静かに首を横に振った。「これは記章じゃない。まだ、誰かの中で続いている途中だ」

 記章は刻む。だが今ここにあるのは、刻まれる前の“在り方”だ。名を与えれば、そこから外れるものが出る。外れた分だけ、温度が失われる。だから今は、滞在だけを許す。保存の代わりに、見届ける。見届けるための距離を守る。


 中間の風が、窓の外から室内へ、そしてまた外へと往復する。


 イオは外気に頬をさらし、風の筋を読んでいた。

 都市の角で生まれる小さな渦が、産毛を逆立てる。遠くから意味でない拍が届く。αの硬い筆圧、βの指が机に打つ反復、Θの紙繊維を撫でる呼吸——それらが重なって、またほどける。成功か失敗かは測らない。必要なのは、始まりの皮膚を守る姿勢だけだ。彼女は頷き、何も置かないことを置いていく。


 夜の温度が一段沈み、耳の奥で静かな鐘が鳴ったように感じられる。

 αは紙を折らない。βはファイルを閉じない。Θはページを閉じない。終わらせない選択が三方向から細い道を敷き、その合流点に、名も発信元もない震えがしばらく滞在する。Refrainは「保存」ボタンに触れず、「滞在」の印だけを残した。記録に載らない詩——記憶のない詩——が、地図にない場所で呼吸を続けている。


 ——名がない。意味もない。

 なのに、確かに“返そうとする”意志だけが、形より先に立ち上がる。


 ジンは画面を黒に落とし、その黒の深さで現象を測った。

 ハクは針を掴まず、机の端に置いたままにする。

 イオは風向きが変わる気配を受け、目を閉じて一度だけ息を合わせる。


 世界は表層を変えず、内側で薄くめくれた。

 そのめくれ目に、記憶のない詩が、しばらくのあいだ——滞在した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ