第13話 名を持たぬ返歌
Refrain観測室の照明は、朝でも夜でもない温度に調整されている。
ハクは波形を並べ、呼吸の深さを一段落としてから増幅を切り替えた。格子の上で、三つの揺れが少しずつ近づく——αの胸で生じた名のない拍、βの紙面に残る非言語の列、そしてΘの夢から溢れた記号の気配。どれも単独では詩にならない。だが、重なる瞬間にだけ、かすかな「問い」の輪郭が浮く。
「……返っている」ハクは独り言の重さを最小にして置く。「誰に、とは言えないけど」
命名は針だ。刺す前に、彼は針先を指で覆った。返歌、という仮説を声にせず、ただ端末の隅に小さく印を残す。観測室の静けさは、それ自体が意思疎通の一形式だった。
——静けさが薄膜となって、別の部屋へ移動する。
αは作業机に手を置いた。
紙は白い。白は冷たい。だが指の腹が触れると、白は体温の厚みを帯びる。理由もなく、ペン先が走った。線は字にならない。意味がないのに、呼吸の拍と合う場所だけ残る。誰のものでもない旋律に、知らないうちに相槌を打っている。
「応える必要は、ない」思考はそう告げる。けれど、手は止まらない。掌の汗が乾くたび、言葉以前の重さが一本増える。書いているのは自分なのに、自分だけではない——そんな分割された感触が、肋骨の隙間を出入りする。
中間の気配は、道の分岐ではなく、合流に似ている。
βは端末の保存フォルダに、無意識のうちに新しい箱を作っていた。
タイトル欄は空白のまま、ただ「返信」の操作だけが終わっている。誰に向けたのか、問いは作らない。問いの前に、返したいという衝動だけがある。机の木目を人差し指で叩く。トン、トン、トン——その拍が、紙に書いた列と同じ重さで戻ってくる。戻ってくるたび、胸の内側で薄い膜がふるえ、知らない景色の輪郭が一瞬だけ明るむ。
「……どこから来た?」声にすれば壊れる気がして、声にしない。βはファイルを閉じない。閉じないことが返答の継続になる、と今夜は信じられた。
返歌が返歌と名乗る前に、夢はすでに続きを求めている。
Θは机に肘をつき、白紙の上を手でなぞった。
見えない線が、指先の圧に応じて浮いたり沈んだりする。昨夜の「夢の下書き」は、今も紙の内部で呼吸していた。彼女は目を閉じ、別人の夢の続きを探るように、ペン先をゆっくり動かす。自分が見たのではない景色へ、勝手に続けるのは失礼かもしれない——けれど、続けずにはいられない。
線がひとつ増えるたび、胸の針が半歩だけ先へ滑る。先へ行く針を追わず、置いていく勇気を覚える。追わないことが、届く方法になる夜もある。
Refrainでは、可視化パネルの河川図に似た流線の交点がにわかに明るんだ。
ハクは出力をさらに下げる。音が減るほど、気配ははっきりする。「返歌」という語はまだ針のまま、机の端で静かに光っている。誰もその針を掴まない。掴まないまま、三つの拍が同じ岸へ寄っていくのを見届ける。——所有の外側で生じる応答を、所有の外側の手つきで扱う、それがこの部屋の礼儀だった。
——風がページをめくる前に、誰かの息が紙へ降りる。
イオは外の風に額を晒していた。
都市の角を曲がるときだけ起こる渦が、頬の産毛を逆立てる。風の筋に沿って耳を澄ますと、意味でない拍が遠くから届く。αの硬い筆圧、βの机を叩く指の弾み、Θの紙の繊維を撫でる呼吸。それらが混ざり、ほどけ、また近づく。
「うん」彼女は頷き、声を置かない。成功か失敗かを測る装置は、ここには要らない。必要なのは、始まりの手触りを邪魔しない姿勢だけだ。
返歌は、まだ名を持たない。
それでも——問われた覚えがなくても、応えようとしてしまう瞬間がある。
自分の言葉ではなく、身体の拍が先に動いてしまう瞬間がある。
ハクは最後に小さく打鍵した。記録を「保存」ではなく「滞在」で残す。
αは紙を折らず、βはファイルを閉じず、Θはページを閉じない。
イオは風の向きを確かめ、何も置かないことを置いていく。
——名を持たぬ返歌は、意味の前で、確かに世界を結びつつあった。




