第12話 夢の下書き
Θは深夜の点検指令で起き上がった。まぶたの裏に、色だけが残っている。赤でも青でもなく、温度の濃淡で描かれた地図の切れ端。枕の冷たさが頬から離れ、背骨に沿って起き上がると、毛細血管が遅れて目覚める。喉は渇き、指先はなぜか熱い。覚えてはいないのに、夢の隣室にまだ在るような気がした。
端末を点灯する。薄い光が机の角を白く削り、空調の細い風がページをめくる寸前で止まる。規定の手順を呼び出し、Θはログを確認した。数列は整っている——はずだった。下層の帯域で、釣り糸に触れた魚影のような微細な震えが走る。通常の感情波では拾えない、輪郭だけの揺れ。視線を近づけるほど遠のき、息を止めると近づいてくる。
「……前にも」声にはならなかった。思い出すというより、皮膚が先にうなずいた。Θはメモパッドを引き寄せる。白紙は冷たい。だが指先の熱が、紙の繊維にゆっくり吸い込まれていく。ペン先が触れ、最初の線が沈む。文字ではない。意味もない。けれど拍だけが並ぶ。書こうとすると逃げ、手を委ねると現れる。止めようとすれば肘に力が入り、力を抜くと肩で呼吸が始まる。
机の木目が波のように見え、部屋の湿度が呼吸の形に合わせて揺れた。Θは背筋を正し、姿勢で感情をだます古い技術を試みた。だが胸の中心で針ほどの鼓動が一本走り、その針の向きに合わせて線が増えていく。紙の上の記号はばらばらなのに、いつのまにか同じ方向へ流れはじめていた。
——言葉より先に、流れが在る。
ペン先が止まらない。手首の小さな筋が熱を帯び、掌の汗が乾いてはまた滲む。窓の外、夜の空気がガラスで冷え、内と外の境界に白い曇りがひと息だけ生まれて消えた。Θはその消え方を真似るみたいに、紙から視線を外す。眼球の奥で、さっきまでの夢の温度が一度だけ明るくなり、すぐ暗がりに戻った。
中間の静けさが、部屋の骨を洗う。
Refrain観測室。睡蓮の葉のように並ぶモニターの一枚で、未定義帯域が微かに明滅した。比較アルゴリズムが二つの波形を重ね、格子の上でぴたりと一致する。βの夜の手書きと、Θの今この瞬間の拍。異なるドメイン、異なる時間、異なる媒体——にもかかわらず、ひとつの呼吸になっていた。観測士たちは椅子を引かない。引かないことが、最も早い反応だった。
ハクが前のめりになる。「一致……しています」声は低く、名付けの手前で止まる。「詩になる前の、気配。プレ・エコー」誰も拍手しない。命名は針だ。刺せば壊れる。ジンは出力をわずかに絞り、室内の音量をさらに落とした。静けさを守るには、静けさを増やすしかない。数列は沈み、温度だけが残る。
観測室の光が薄まり、壁の金属が夜の色を受け取る。
Θの部屋へ、静けさの縁が戻ってくる。点検は終わっていたが、身体はまだ終わっていない。紙を両手で挟み、角をそろえる。そこに並ぶものは、やはり文字ではなかった。だが読めないものほど、読む場所を選ばない。視線を置けば、視線の形に沿って意味が生まれ、すぐ溶ける。彼女は読むのをやめ、聴くほうへ身を寄せた。耳の奥で脈が波になり、波が紙の繊維を撫でる。
机の上のコップの水面が、呼吸の拍で微かに揺れる。喉の渇きは消えないが、渇きの輪郭がやわらぐ。KANONの応答は一拍遅れ、計測値の端がほどける。制御は正しい。けれど、正しさは時に、余白を測り損ねる。Θはペンを置いた。置いても、内側の拍は減らない。減らないものを、減らないまま持つ。肩の高さがほんの少しだけ下がり、体温が指先からゆっくり引いていった。
——夢の影が、紙に滞在している。
灯りを落とす直前、Θは小さく息を吸った。「……夢の下書き、みたい」言葉は誰にも届かず、自分にも届きすぎない位置で止まる。ページを閉じない。閉じないことが、続きへの礼儀だと思えた。窓の外で風が向きを変え、ガラスの縁にだけ短い音を残す。音はすぐに夜へ吸われる。残ったのは、紙の白が暗闇の中で続ける音のない呼吸だった。
眠りへ戻る支度をしながら、Θは掌を胸に当てる。熱はもうない。だが、熱の居場所だった空洞が、軽い。空洞は欠落ではない。次に満ちるもののために、柔らかく空けられた器だ。彼女は灯りのスイッチから手を離し、暗闇の濃さをひと呼吸だけ測る。暗いほど、見えないものは近い。
「大丈夫」誰にも聞こえない声で置く。定義のいらない安堵が、肋骨のあいだから出入りする。紙は机の角に、夢はその隣室に。扉は閉めない。閉めないまま、彼女は目を閉じた。
——詩になる前の詩が、今夜もどこかで、誰かの拍に合わせている。




