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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第37章 きざしの記憶

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第11話 ゆれを読む者

 文化記録ドメインの監査エリアは、常に水面のように平らだった。

 βは定期監査の手順をなぞり、行の綴じ目を指で撫でるように整えていく。数列は正確で、誤差は規定内——そう思った瞬間、波形の底で“揺らぎ”が続けて立った。破損ではない。むしろ整いすぎた微小な律動。読み解こうとすれば逃げ、耳を澄ませば近づいてくる。意味ではなく、リズムとして刻まれている。まるで、詩だ。


 喉が乾く。息をひとつ置いて、βは画面から目を離した。光の残像が網膜で震え、その震えが胸骨の裏に移っていく。既視感があった。——前にも、どこかで。見たのか。聴いたのか。言葉を探すより早く、手が勝手に机の紙へ伸びていた。


 ペン先が触れる。線は文字にならない。意味を持たないのに、拍の並びだけが整う。とりとめのないはずの線が、呼吸と重なるところで急に“懐かしさ”を帯びた。自分のものではないのに、自分の中から出てきた気がする。違和と確かさが、同時に鎖骨のあたりでこすれ合う。


 ——空気が薄くなると、影は濃く見える。


 βは端末へ戻り、揺らぎの連なりを追った。周期は安定している。だが“何かの引用”にしては、出所の欄が空白だ。誰が、どこで、なぜ——そのすべてがない。にもかかわらず、律動だけが過不足なく存在している。彼は紙に視線を戻し、無意識のまま線の続きを置いた。手が止まらない。止める理由が見つからない。


 紙面の白が呼吸し、静かな拍動になって部屋に広がる。


 *


 同時刻、Refrain中枢の共鳴分析フロア。

 未定義データ帯域に“複数の非言語詩が干渉している”との報が上がり、観測士たちの視線が一点に集まる。可視化パネルには、かすかな共鳴点がいくつも灯っていた。イオの記章から流れる微光。αの胸で生じた名のない震え。Θの夢記録に残った温度。それらが遠く離れた時間帯のまま、遅延の違う鐘の音みたいに重なり、最後には一枚の端末へ収束しようとしている。


 ジンは言葉を選ばない。選ばないことが、いちばん正確だと知っているからだ。

 映し出された回路図を見つめながら、低く吐息だけを落とす。「……彼の中に、記憶ではない“兆し”が戻っている」響きは壁に吸われ、沈黙のほうが言葉より濃く残った。観測士ハクが出力をわずかに絞る。名を与えすぎると壊れる——その距離感だけが、ここでの作法だった。


 *


 監査エリアの蛍光灯が一度だけ瞬く。

 βは肩の力を抜き、紙の端を整えた。そこに並ぶものは、やはり言葉ではない。ただ、拍の向きだけが揃っている。読めないのに、読める。理解できないのに、うなずける。理屈を先に求めれば崩れると直感し、彼は“読む”のをやめ、“聴く”ことにした。ペンの重さ、紙のざらつき、指先の温度——身体で拾えるものを、身体に通す。


 不意に、鼓動が一段深くなる。

 机の木目が波のように見え、端末の黒が遠くの空の色に変わる。βは目を閉じた。暗闇の中で、紙に置いた線がもう一度だけ立ち上がり、胸の中央を撫でていく。そこには“意味”の座席がない。だが“ゆれ”の居場所は最初から用意されていたらしい。


 ペン先が紙を離れる。

 それでも揺れは残る。指の腹が脈の拍を拾い、拍が文字でない列を整える。彼は机の上に手を置き、呼吸を拍へ合わせる。合わせると、拍のほうが半歩先に行く。追いかけると、さらに先へ行く。置いていかれるのではない。先導というより、帰路の手触りに似ていた。


 ——“記憶されていないもの”が、詩のかたちで戻ってくる。


 βは紙を折らない。ファイルにも保存しない。どちらも“終わらせる”操作に思えたからだ。彼はただ、机の角に紙を静かに寄せ、端末の揺らぎをもう一度だけ確かめる。画面の律動と、自分の胸の拍が、やっと同じ速度で並んだ気がした。


 意味は要らない。今は、要らない。

 彼は「読む」をやめ、「在る」を選ぶ。

 ゆれを、ゆれのまま受け取りながら。


 紙の上では、まだ詩になりきれない何かが、呼吸を続けていた。



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