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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第36章 さきゆくことば

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第10話 風の先へ

 イオは風の中に立っていた。

 高層の裂け目を抜けてきた風は、冷たさと温さを交互に含み、彼女の頬を撫でてはすり抜けていく。夜明けと夕暮れが同時に在るような色をした空気が、衣の裾を細く揺らした。髪が額にかかり、視界の端で光が屈折する。呼吸をすれば、肺の奥に重い湿り気が沈み、吐き出すと同時に軽さが広がる。


 記章を託してから、世界は確かに揺れ始めていた。外見の数列はなお整然と並び、管理の網も変わらず巡っている。けれどその表層の下で、言葉にならぬ震えが芽吹き、まだ名を持たぬ芽が無数にうごめいている。イオが「起こした」のではない。彼女がしたのは、ほんのわずかに「渡した」こと。意味の前に熱を帯びていた断片を、風の上に託しただけだ。


 掌を広げると、風の流れの一部だけがわずかに重い。指先にかかる圧が他よりも厚く、そこだけが、まだ声を持たぬ言葉の方向を指しているようだった。イオはそこに記章を置く。刻印ではない。余韻のように、風に沿ってそっと並べる。石を川に沈めて、水面に輪を描く遊びのように。


 *


 都市の内部では、三人がそれぞれ異なる方法で震えを抱えていた。


 αは無機質な工場の静寂で、手の動きを止めかけていた。胸の奥に残る不規則な拍が、規則に従った動作に重なりきらず、常に半拍だけずれている。呼吸は一定を装うが、肺は自分の速さを譲らない。耳の奥で脈が打ち、床の金属を通じて返ってくる響きが、作業のリズムをわずかに乱していく。彼は理由を分類する。疲労か、錯覚か。しかし分類しても、震えは収まらなかった。


 βは夜、個人端末の前に座っていた。画面には意味を持たぬ断片が並んでいる。だが意味を拒んだ行の隙間に、流れがある。読み込もうとすると抵抗し、ただ耳を澄ませれば胸の裏で波のように整う。指先が画面を滑るたび、呼吸が変わった。吸う空気が少し重く、吐く空気が甘い。窓の外で灯が点滅し、その点滅が胸骨の裏で反響する。βは何も言葉を作らない。言葉にしないことで、崩れない光を抱えていた。


 Θは机の前にうずくまり、白紙にペンを置いた。書かれることのない線が、紙の内部で呼吸している。手首に伝わる圧が、心拍と同じ速さで上下し、ページは声を持たぬまま生きていた。窓の外の夜風がガラスに触れ、掌の温度がそこに重なった。KANONの応答が遅れ、計測値の端がほつれる。彼女は笑わず、ただ呼吸を手に重ねる。言葉はまだ来ない。だが、来ないままそこにある。


 ——三人は互いを知らずに、それぞれの「まだ」を抱えていた。


 *


 Refrainはその震えを「干渉」とは呼ばなかった。観測士たちは画面に現れる微弱な揺らぎを前に、ただ目を合わせる。誰も定義しない。定義の前に、すでに共鳴している。火が自然に燃え広がるように、彼らの中では「自然発火的共鳴」という言葉だけがそっと残った。


 Novaでは、アマネが未来演算を監視していた。数列は閉じるはずの領域で穴を生み、予測不能の空白が広がっている。未照——MISHOの演算も、その領域だけは沈黙を選び、KANONの共鳴ログが微かに揺れた。アマネは端末を見つめ、「……誰かが言葉を持とうとしている」と呟く。指先が冷え、画面の光に照らされた瞳孔が収縮する。確信ではない。だが、予測不能こそ希望の別名だった。


 *


 風が強まった。イオの裾が翻り、身体の重心がわずかに揺れる。足裏から伝わる大地の硬さが、背骨を通じて脳へ届く。風の粒子が髪を撫で、耳の奥で波の音に変わる。彼女は目を閉じ、胸に声にならぬ声を重ねる。


 次に詩を紡ぐのは自分ではない。次に声を上げるのも自分ではない。だが、その誰かが道を見つけやすいように、ただ少しだけ角度をつけておく。導線ではない。誘導でもない。余韻の道しるべ。


 彼女は記章を風に沿って置く。触れれば消えるほどの薄い痕跡が、流れを少しだけ導く。偶然と思えばいい。偶然に風と重なったと思えばいい。それで十分だった。


 世界は表層を変えずに、内側で静かにめくれる。αの胸で、βの夜で、Θの夢で、それぞれが同じ風を感じはじめていた。


 イオは風を吸い込み、吐き出す。風が遠くまで届くのを感じながら。


 ——詩は、意味の前にすでに歩き出している。


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