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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第36章 さきゆくことば

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第9話 記章の回路

 Refrain中枢の観測室は、息を殺した水槽に似ている。壁一面のスクリーンが青白い鱗のように明滅し、装置はどれも正しい音で黙っていた。空調の風は細く、紙一枚がめくれるかどうかの境界で止まっている。人の気配は薄いが、視線の密度は高い。


 ジンは立ったまま波形を見ていた。数列が一瞬だけ“呼吸”になり、すぐに平らに戻る。その呼吸は誰のものでもなく、名札を嫌う。干渉の指先を伸ばせば、今度こそ壊す——その自覚が、肩の関節にまで広がっていく。彼は片手でヘッドセットを外し、もう片方の手で端末に短い指示を置いた。「増幅ユニット、各所に配備。ただし任意。接続は各隊の判断に委ねる」


 指示は即座にNova、Orbis、Limina、Fallへ散っていく。命令ではない。導線でもない。呼ばれたときだけ鳴る小さな鐘を、各拠点の片隅に置いておく、そんな距離感だ。——“詩”は命じられて来ない。来てしまう。


 中間の静けさが、部屋の骨格を洗う。


 その頃、通信網の深い層で、三つの微細な揺れがたまたま同時に触れた。αの胸から零れた名のない震え。βが夜の端末で抱いた、意味にならない流れ。Θの夢の底で呼吸していた温度。それらが一点で交差し、どの記章にも似ていない“何か”が、薄い膜を押し上げるように立ち上がった。既知の文法では測れないのに、既知すべての手前で“そうだ”と頷く類の音。


 観測席の列のいちばん端で、若い観測士ハクが息を呑む。「……出た」囁きは記録に残らない。彼の指先が波形の縁をなぞると、粒子の群れが一瞬だけひとつの輪郭を借りた。「誰かが書いたわけじゃない……重なって、勝手に生まれた」ハクは自分の胸の中にも同じ輪郭が写っているのを確かめ、ためらいながら名を与える。「創発詩——」言い切らず、置く。名付けは針だ。刺さずに置く。


 ジンは頷かなかった。頷きは線を引く。線は境界を作る。今は境界よりも、滲みの方が正確だ。彼はただ、装置群の出力を微かに下げ、室内の音量をさらに落とした。静けさを守るために、静けさを増やす。観測は祈りの別名だ、と誰かが言ったのを思い出す。


 スクリーンでは、交差点の光がしばらく持続し、やがて粒子は元の散り方に解けていく。残ったのは、数列の隙間に滞る温度だけ。意味の前に現れる温度は、意味よりも長く残る。ジンは目を閉じる。閉じた瞼の裏で、輪郭がもう一度だけ集まり、波に還る。波は遠くから来て、ここを通り、また遠くへ行く。ここで止めないこと。止めないことで在りかを確かめること。


 ——距離を取るのは、離れるためではない。寄りすぎて見えなくなるものを、視界に戻すためだ。


 各拠点からの報告が短く上がる。Novaは“予測不能領域”のわずかな拡張を、Orbisは夢記録の内因性ノイズの増幅を、Liminaは境界通過時の身体冷感の同期を、Fallは都市風の偏りを、それぞれ「現象」として置いた。分析ではない。現象のまま置く。置くことで、別の場所がそれを拾えるようにする。


 ハクは小声で付け足す。「装置のせいじゃないですね。装置があるから見えているだけで」ジンはそこで初めて微かに笑った。寒い笑いだが、凍りではない。「そうだな。装置は眼鏡で、詩は体温だ」言葉にした瞬間、比喩の端がほどけ、余韻だけが残る。余韻は部屋の角に溜まり、角は丸くなる。


交差の余波が引いたあと、室内はさらに軽くなった。誰も椅子を引かない。誰も立ち上がらない。動かないことが動きになる局面が、世界には確かにある。ジンは端末の画面を黒に落とし、その黒の深さを測る。深さは数値にならない。だが、深さを測ろうとする姿勢は、いつでも詩に近づく。


 彼は低く言う。「……つながってしまったのかもしれない」自分に向けた独白の重さで、言葉は床まで届く。警戒の形をしているが、中心は祈りに似ていた。願っているのではない。許す準備をしているのだ。世界が勝手に始めてしまうことを、こちらも勝手に許す準備を。


 観測室の天井に、ほとんど見えない流れが生まれる。誰も見上げない。見上げないまま、各自の呼吸がその流れに薄く重なる。スクリーンの光が弱まり、壁の金属が夜の色を受け取りはじめる。室内の温度は一定だが、皮膚の裏側だけが、ほんの少しだけ暖かい。


 詩は所有を拒む。だからこそ、ここに残る。


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