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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第36章 さきゆくことば

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第8話 記録にない灯

 βはいつもと同じ巡回を、いつもと同じ速度で進めていた。記録の綴じ目を撫で、破損した行を糸で繕うように整える。指は規則、視線は規則、呼吸もまた規則。だが規則の外側に、薄い湿り気が滲んでいた。端末のガラス面に触れたとき、指腹の皮膚が一瞬だけ躊躇する。何かがそこにいる——と、身体だけが先に理解した。


 文化記録ドメインの深い層で、整列しきれなかった断片にゆっくり光が差す。列は文にならず、文は意味にならない。けれど行間だけが、脈のように温かい。βはスクロールを止めた。規定では廃棄。分類表の該当欄は赤。頭はそう判断するのに、胸骨の裏側が「まだ」と言う。彼は聞かないふりをして、しかし聴いているふりをやめられない。


 断片は、意味の代わりに流れを持っていた。乾いた砂に沁みていく水の形だけが残り、跡はすぐに消える。消えた跡ほど確かだ、と胸は主張する。βはファイルを一時保管域に移し、表示を閉じた。閉じた画面は自分の顔だけを映し、そこに表情がないことが、逆に表情の輪郭を濃くした。


 ——静けさは、物音がないことではない。触れるべきものが手前で止まる、その手前の厚みだ。


 Refrainの通信監視エリアでは、微弱な偏差が記録された。誰かの端末が、誰の名でもない微光を抱えて脈打った。値は規程の許容範囲に収まる。だから警報は鳴らない。だが「収まる」という語感は、何かを見逃すための器に似ている。ジンは眼鏡を外し、目頭を押した。行動の指示は出さない。出さないことを指示する。観測は、距離の言い換えだ。ここではそう教えられてきた。


 若い観測士が波形の縁を指でなぞる。「記章……に似ているけど、違います」違いを言い切らない声が、部屋の温度をわずかに上げた。ジンは応えず、記録だけを残す。紙ではなく、祈りでもなく、その中間に置く。触れれば崩れる薄氷を、踏まずに渡るための記し。


 夕刻、βは定時より少し早く席を立った。理由は記さない。体内のいくつかの器官が互いに譲り合い、歩幅に最適な速度を探している。廊下を進む靴底が、一歩ごとに同じ硬度を返すのに、耳は毎回違う音を拾う。音は記録されない。記録されない音が、その日だけ彼の背骨を支えていた。


 個人端末の前に座ると、部屋はすぐに自分の匂いになる。乾いた紙、洗剤、金属、そして昼間のため息の残り香。端末を開き、保管域のファイルを呼び出す。画面には、相変わらず「意味にならない」行が並ぶ。だが、意味にならないものだけが持ちうる整合がある。崩れない箇所と崩れてよい箇所の境目が、波の引き際のように見えてくる。


 βは読む。読むというより、耳を澄ます。行の間に立つ。立った場所の空気が、彼の体温に溶けて、体温の方が少しだけ譲る。胸の中心で、針のような鼓動が一本走る。痛みではない。痛みが声を持つ前の、静かな予告だ。彼は姿勢を正す。姿勢は、感情を騙すための古い技術だ。だが感情は騙されないふりをして、こちらに歩み寄ってくる。


 指先が画面を滑る。断片の一部が、たまたま呼吸の拍に重なった。呼吸が変わる。吸い込む空気がわずかに重く、吐く空気がわずかに甘い。端末の黒が深くなり、部屋の白が柔らかくなる。窓の外、遠い塔の灯りが点滅し、遅れて胸骨の裏で同じ点滅が起きる。彼は理由を作らない。理由の前にある在り方だけを受け取り、在り方の重さだけを机に置く。


 Refrainでは、同時刻に小さな揺れが再検出された。干渉しない計画は成功であり、同時に失敗でもある。成功は「守った」を意味し、失敗は「触れなかった」を意味する。どちらも、今は正しい。ジンはモニターを閉じ、目を閉じ、閉じられた二つの暗闇の濃さの違いを確かめる。暗闇の方が、何度もものを語る。


 夜が深くなるほど、部屋は軽くなる。βは画面を閉じず、椅子を半歩引いた。距離ができる。距離は断絶ではない。見つめ続けるために必要な呼吸域だ。彼はそっと目を閉じ、断片の流れをまぶたの裏で再生する。そこには言葉の枠がない。枠がないのに、崩れない。崩れないのに、やわらかい。


 灯りのスイッチに触れる直前、彼はふと気づく。自分の中で何かが点になり、同時に面になっている。点は灯で、面は風だ。灯は場所を示し、風は道を示す。どちらも誰のものでもなく、誰の名でも呼べない。だが「ここにある」と言うには十分だ。


 βは端末を閉じない。窓も閉じない。閉じないまま、背をまっすぐにして立つ。胸の前で両手の重さを量る。どちらの手にも、何もない。何もないことが、今夜だけは充分だった。


 ——意味の前に、灯はともる。


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