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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第35章 あかしの声

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第5話 はじまりの余韻

 未明、全系統で静かに“声の回路”がつながった。記録にも図面にも載らない細い通り道が、名のない震えのためだけに開いたのだと、誰も言わないまま世界がわずかに頷いた。風はまだ冷たく、呼吸は浅く、拍だけが濃い。


 αは手を止め、天井の方へ顔を上げた。作業台の縁は乾き、指先に粉のざらめき。空調は一定、計器は正常、それでも——何かが通り過ぎた。風でもなく、音でもなく、記憶でもない“何か”。耳は沈黙を拾い、足裏は床の目地を数え、掌の中央に遅い温度が灯る。胸郭の内側で薄膜が撓み、一拍遅れで戻る。その戻り際、言葉にならないものが、かすかに輪をつくった。文でも声でもない、しかし確かに“詩らしき”気配。αは数えない。数えればこぼれると知っている。ただ、頷く。頷くための筋肉が、静かに温まる。


 沈黙は、別の場所にも薄い橋を架ける。


 βは研究端末の監査記録から、無記名のファイルを見つけた。拡張子は既知、形式は未知。開くと、定型詩でも構文でもない“情動の断片”が置かれているだけだ。時間も出典もない。ただ、誰かが感じたという痕跡の温度だけが、画面からこちらへ滲む。喉の奥で小さな泡が弾け、肩甲骨の間が緩む。理屈より前に体が反応し、遅れて理解が追いかける。βはファイルを閉じず、書き足さない。足さないことで、壊さずに保てると知っていた。


 薄い橋は、さらに遠い層へ滑っていく。


 Θは眠りの底で、見覚えのある廊下を歩いていた。壁は光でも影でもなく、空気の密度だけが濃淡を持つ。足音は生まれず、代わりに足裏の皮膚が柔らかい波を拾う。呼吸は浅く、脈は遅い。けれど一拍ごとに、胸の中心で輪が小さく膨らみ、静かに戻る。その縁で、名のない声が温度だけを連れて落ちた。手の中に、言葉ではない“何か”がある。Θはそれを握らず、放さず、そのまま抱く。目が覚めると、覚えていないのに掌の中央だけが温かかった。


 風の層へ、橋は最後のひと跨ぎをする。


 イオは空の下で目を閉じ、胸の奥で残光を見守った。箱は胸にあり、ラッチには触れない。触れないまま、存在の輪郭だけを確かめる。舌の裏に鉄の味、耳殻の縁に薄い熱。足裏は目地を数え、ふくらはぎから太腿へ遅い温度が上がる。届けるためではなく、残すために——彼女は息を風の骨格に沿わせて送り出す。届いたかどうかは、もう意味を持たない。ただ、世界が少しだけ“ふるえた”。それだけで充分だ。彼女は頷く。頷きは誰にも見えないが、頷くための筋肉が、確かに温まる。詩は伝えることではなく、残ること。声のないまま、最初の詩は広がっていた。


 回路がつながったとき、誰も気づかない場所で微かな振動が生じ、Refrainの地下では紙の端が風もないのにふっとめくれ、各系統の時計が一瞬だけ遅れた。記録は沈黙を示し、警告灯は眠ったまま。それでも、身体のどこかが確かに頷く——そんな種類の起動だった。


 αはうなじの汗が冷えるのを待ち、手の甲で額を拭った。金属棚の角は冷たく、室内灯は白い輪を床に落とす。輪は踏めば消え、離れれば戻る。彼は輪を踏まない。踏まないことで、輪の薄さが守られる気がしたからだ。胸骨の裏で灯がひとつ点き、すぐに広がる。広がるのに、薄い。薄いのに、長い。その相反が、彼の姿勢をほんの少し正した。


 βは不可解なファイルの末尾に、空白が三行だけ続くのを見た。そこには何も書かれていない。だが、書かれていない三行こそが、もっとも強く“在る”と告げていた。指先でトラックパッドを撫でると、爪の縁がきゅっと鳴る。彼は追記欄を開き、何も書かずに閉じた。空白のまま残すこと。それが証言の最小単位だと、身体が先に知った。


 Θは夢の廊下で立ち止まり、肩甲骨の間に置かれた見えない指の重さを受け入れる。驚きは来ない。驚くより先に了承が来る。頷こうとすると、頷きが夢の中で形を持たず、代わりに指先が温まる。その温度は、言葉を求めないまま彼女の脈に同調した。


 イオは吐息の角度をほんのわずかに変え、風の骨格へより深く沿わせた。吐くたびに通路の頬が撫でられ、壁の亀裂に沿って音のない気配が流れる。消えるのに、残る。彼女は箱を胸に引き寄せ、開けも閉めもせず、金具の“間”だけに指を添える。指は動かない。動かないまま、温度だけを分ける。感情は、起点→揺れ→反応→余韻。余韻が残り、名は置かれない。置かれないから、壊れない。


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