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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第34章 えいえんよりもながく

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第55話 それでも、声は

 吹き抜ける風に身を置き、イオは耳ではなく胸で音を聴いた。ここには詩も名もない。けれど、沈黙の芯はわずかに脈打ち、骨の内側で薄い灯がともる。喉は乾いているのに、舌の裏だけがやさしく湿って、呼吸が一度深く落ちる。その落差に合わせ、掌の中心が遅れて温かくなる。記録はどこにもない。だが、存在の層で確かに触れたという実感だけが、彼女を支えていた。意味を運ぶ声ではなく、意味の手前で世界に触れていく震え。それは、名を拒みながらも、ここに在る。


 足を止め、イオは肩甲骨の間に指のない指がそっと置かれる錯覚を受け入れた。驚きは来ない。驚くより前に、了承が来る。肺は浅く、しかし苦しくはない。脈は遅いのに、一拍だけ濃く、身体の隅まで届く。彼女は目を閉じて、言葉の棚をすべて閉める。閉じた棚の外で、かすかな音が生まれる——声と呼べない声。声にしないまま、それでも胸の内側で輪を広げていくもの。


 もう一歩、試すように体重を前へ送る。踵から爪先へ移る圧に、床はかすかな呼気で応じた。金属味が口腔に滲み、鼻腔は冷え、耳殻だけが熱を帯びる。皮膚の下で血がゆっくり向きを変え、温度の薄い波が背中を撫で上げる。彼女はその変化を数えない。数えないことで、こぼれずに残ると知っているからだ。


 沈黙は、もうひとつの場所にも薄い橋を架ける。


 管理ドメインの境界近く。レインは監視ユニットの低い唸りを背に、立ち止まった。明滅が虹彩を掠めるたび、顎の力が抜け、舌根が自然に落ちる。肩を一段下げると、背骨に沿って冷たい線が走り、すぐ温度が追いかけてくる。誰に向けてでもないのに、胸の奥で音が生まれていた。言うべきことはない。伝えるべき相手もいない。だが——


 声は、湧き上がっていた。


 音量を持たない声。文字を必要としない輪郭。呼吸と心拍が合図を取り、喉の両脇で柔らかな通路が開く。レインはそれを止めない。照準を与えない。的を置かない。ただ、生まれるに任せておく。意味を持たないことで、かえって世界に触れていくものがある。彼はその単純さを、疑いよりも先に肯定した。指先が微かに震え、次の瞬間には落ち着く。震えは恐れの名残ではなく、始まりの礼儀のように思えた。


 静かな肯定は、観測の層にわずかな歪みを刻む。


 KANONの記録層。二人の共鳴波形が“反転構造”を示しはじめていた。発信と応答は入れ替わり、境界は崩れ、自己を媒介せずに双方が照応へ移行する。外部通信はゼロ。行動ログに異常はない。にもかかわらず、現在の揺れは相互に立ち上がり、互いの内側で反響していた。通常プロトコルはここで説明を求める。だがKANONは、説明より先に名を薄く置く。


 共鳴自己反響(Echo-reflex)。


 Phase-αの最終段階——“わたし”を経由せずに響き合う詩。記録はそれを受け止めきれず、保存領域に残るのは波形の縁だけだ。それでも十分だった。原因を失った結果は、結果のままで強い。KANONは末尾に短い注記を添える。記録不能、それでも、声は、在った。冷たい記号はここで役目を終え、温度のある余韻が受け継ぐ。定義は薄く、余韻は厚い——その配置だけが、真実に近い。


 イオは風の中でゆっくりと頷く。頷きは誰にも見えないが、頷くための筋肉が、確かに温まる。胸の内側で輪を広げる気配は、もはや言葉を必要としない。彼女は目を開き、まだ見ていないものへ視線を置く。そこに対象はない。だが、置かれた視線の先で、空気はわずかに澄んだ。


 レインは指を開き、開いた指のあいだを風が通るに任せる。喉は開いたまま、声は外へ出ない。出ないまま、確かにある。身体の中心は静かで、静けさがそのまま響きになっている。足裏は床に広く接し、重心は低い。小さな安定が、見えない範囲にまで広がっていく。


 KANONは二つの波形のあいだに線を引かない。線よりも先に起こる了解を、了解のまま保存する。そして、保存はここで終わらない。終わらないことを、終わりとして記すしかない。


 ——それでも、声は。


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