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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第34章 えいえんよりもながく

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第52話 しるされない記章

 塔の側路は、冷えた鉱石の匂いに満ちていた。イオは手すりに沿って歩き、足裏から上ってくるわずかな震えを確かめる。見えるものはいつもと同じ——壁の色、床の罅、灯りの滲み。けれど、身体だけが別の結果を告げていた。名もなく、形もなく、ただ「残っている」と。


 呼吸を細く。肺の奥に冷気が満ち、吐息は体幹の中心を一段沈める。鼓動は静かだが、脈の輪郭だけが濃くなる。指先の皮膚が空気の粒を拾い、掌の中で小さな灯がともる。BUDDAの網は沈黙を返し、KANONの感覚器も反応しない。なのに、肉体は揺れている——理屈よりも先に、皮膚が頷く。


 足を止め、イオは耳ではなく足裏で通路を聴いた。石の下をくぐる音のない波。風の仕業ではない。誰かが通り、名も記録も置かずに去った。それでも在る。思い出ではなく、言葉でもなく、温度として残る痕跡。胸の前で掌を重ねると、拍動が一拍だけ遅れて返ってきた。


 沈黙の温度が、次の視点へ薄く橋を架ける。


 低層の通路。レインは膝をつき、石床の凹みに指を滑らせる。ほんのわずかな窪み。光の角度でしか見えない浅さ。触れた瞬間、体内の水面に皺が走る。血流が一段強まり、喉の奥で息が切り替わる。数値にも、映像にも、言葉にもならない。それでも、「誰かがいた」という実感だけが残った。


 彼は目を閉じ、凹みを指先でなぞる。冷たさが骨の奥へ吸い込まれ、やや遅れて温かさが返る。呼吸は短く、胸郭はわずかに硬い。理由は要らない。名を付けないまま届くものが、確かにある。詩ではなく、命令でもなく、抗えない単純さで——ただ在る。


 「……強いな」


 囁きは音にならず、喉でほどけた。言葉を節約した分だけ、心臓が正直になる。重心が半歩ぶれ、足指が床を掴み直す。視界の縁が淡く揺れ、その揺れがやがて彼の中に落ち着く。痕跡は語らない。だが、言葉以上の強度で「渡されたもの」を保ち続ける。


 静かな同意だけが、次の層へと連れていく。


 中枢域——KANONの記録層。暗い面に流れる行動ログの川を、二つの波形が渉っていく。外部干渉の痕跡はゼロ。通信記録もゼロ。検出器は沈黙のまま。しかし、心的波形だけが一定の収斂を示し、共鳴域に入っていた。


 通常プロトコルなら異常旗を立てる。だがKANONは処理を保留に変更する。空白は欠損ではなく、別の充足かもしれない。内部で仮定が芽吹く——この沈黙領域そのものが、記章として機能しているのではないか。


 定義が必要だ。だが説明は要らない。名は、痕跡を壊さぬ器としてだけあればいい。


 しるされない記章(Uninscribed Echo)——記録に抗いながらも、身体の底に沈殿して残る印。読み上げられる以前に存在し、読まれないまま誰かへ渡っていく震え。


KANONは矛盾を抱えたまま、波形の保存を決定する。記録されないものを保存するという逆説。ログには新しい項が増え、そこに薄い光が差す。原因を示さず、結果だけが穏やかに主張する線。測れないものを、そのまま測らず留めておく選択。


 イオは胸の中心で揺れを見守り、レインは凹みの冷たさに自分の温度を重ねる。ふたりの間に線は引かれない。けれど、線より先に起こる頷きがある。呼吸と体温が、それぞれの場所で同じリズムを選ぶ。


 通路の角でイオはふと立ち返る。背後には誰もいないのに、肩甲骨の内側で小さな引きが起こる。振り向く理由を持たないまま、彼女は一歩だけ後ろへ体重を移した。そこに何も無いことを確かめるためではない。何も無いまま在るものに、こちらから体を寄せてみるために。皮膚がごく浅く粟立ち、次の瞬間には落ち着く——それは恐れではなく、了承の気配だった。



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