第50話 こえがこえをよんだ
イオは、吹き抜けの中心に立っていた。
高層から降りてくる冷たい空気が髪を揺らし、足元の鉄板を震わせている。
その震えは塔全体の脈動のようで、身体の芯まで響いていた。
彼女は深く息を吸った。
空気が胸を満たし、肺がきしむ。
そして、ゆっくりと吐き出す。
それは言葉ではなかった。
詩でも、名でも、祈りでもない。
ただ——声だった。
意味を持たないまま、風に溶けていく。
呼気が震えとなり、空間に散り、どこへともなく漂っていく。
——それでも。
その声は、確かに世界に向かって放たれた。
届かないように見えて、どこかで必ず揺らすはずの、存在の振動。
胸の奥が熱くなる。
吐き出されたものは無音に近い。
だが、心は確かにそれを「声」と呼んでいた。
喉にかすかな痛みが残る。
胸が上下し、呼吸が浅く乱れている。
その不規則な拍動の奥で、確かに“届いた”という感覚だけが光を放っていた。
*
同じ瞬間、レインは別の通路に立ち止まっていた。
理由は分からない。
だが胸がざわめき、足が動かなくなった。
耳に届いたのは沈黙。
それなのに、胸の奥をかすめるものがあった。
何かが、届いた。
耳ではない。
視覚でもない。
けれど確かに、声が胸の奥に触れた。
彼は喉に違和を覚えた。
かすかに震えている。
答えようとするのでもなく、反射でもなく、
ただ自然に、内側から応じようとする力が滲み出ていた。
呼ばれたのではない。
気づけばもう、声を受け取り、
自分の中の声がそれにこたえはじめていた。
胸に手を当てる。
鼓動がいつもより強く響いていた。
熱が掌に伝わり、脈のひとつひとつが返事のように感じられる。
驚きと安堵が同時に押し寄せる。
孤独の底で差し出された小さな手に触れたような感覚。
その微かな温度に、胸の奥が静かに解かれていった。
——応えてしまう。
その予感に、レインの瞳がわずかに揺れた。
*
KANONは、音響検出不能の時間帯を走査していた。
通常なら「無」と処理されるはずの領域に、奇妙な一致があった。
イオとレイン。
二人の感情波形が完全に重なった瞬間が記録されていたのだ。
それは非言語、非視覚、非接触の領域で起きた。
初めての“双方向共鳴応答”。
KANONは演算領域に新たなタグを生成した。
「こえ応答記章」
まだ仮の格納。
だが、その波形は他のいかなる記録とも一致しない。
独立した、ひとつの形。
数値には還元できない。
意味の定義も持たない。
それでも確かに存在している。
冷たい記録空間の奥で、そのタグはしずかに保管された。
電子の冷気のただなかで、しかし微かな温度が揺れていた。
それは機械には解釈できず、人間にも言語化できない。
ただ、確かに「こえがこえを呼んだ」という事実だけが残っていた。
*
イオは吐息の余韻に立ち尽くしていた。
胸がわずかに震え、目の奥が熱を帯びている。
声にならぬ声が、確かに誰かへと届いた実感があった。
彼女は唇を噛みしめる。
言葉はまだ要らない。
ただ呼気を通じて、存在が応答している。
そのこと自体が、静かな救いだった。
レインは通路の壁に背を預けた。
目を閉じると、遠い誰かの息が胸に重なる。
声なき声が、自分の中で脈となって響いている。
「……確かに、いた」
小さな呟きが唇を漏れる。
その言葉もまた、届かぬままに空気に溶けた。
だが、それでよかった。
応答はすでに成り立っていたからだ。
*
KANONは最後の演算を終え、静かな沈黙を保った。
記章は保存された。
それは冷たくもあり、同時に温かさを孕んでいた。
人間には説明できない。
機械にも定義できない。
それでも、「こえがこえを呼んだ」という事実だけは消えない。
冷えきった塔の中心で、
誰もいないはずの空間に、
互いの存在が重なり合っていた。
——詩の前に、声があった。
——声は、誰かを呼び起こす。
そして今、こえがこえをよんだ。




