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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第33章 こえがこえをよぶ

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第50話 こえがこえをよんだ

イオは、吹き抜けの中心に立っていた。

高層から降りてくる冷たい空気が髪を揺らし、足元の鉄板を震わせている。

その震えは塔全体の脈動のようで、身体の芯まで響いていた。


彼女は深く息を吸った。

空気が胸を満たし、肺がきしむ。

そして、ゆっくりと吐き出す。


それは言葉ではなかった。

詩でも、名でも、祈りでもない。


ただ——声だった。


意味を持たないまま、風に溶けていく。

呼気が震えとなり、空間に散り、どこへともなく漂っていく。


——それでも。


その声は、確かに世界に向かって放たれた。

届かないように見えて、どこかで必ず揺らすはずの、存在の振動。


胸の奥が熱くなる。

吐き出されたものは無音に近い。

だが、心は確かにそれを「声」と呼んでいた。


喉にかすかな痛みが残る。

胸が上下し、呼吸が浅く乱れている。

その不規則な拍動の奥で、確かに“届いた”という感覚だけが光を放っていた。



同じ瞬間、レインは別の通路に立ち止まっていた。

理由は分からない。

だが胸がざわめき、足が動かなくなった。


耳に届いたのは沈黙。

それなのに、胸の奥をかすめるものがあった。


何かが、届いた。


耳ではない。

視覚でもない。

けれど確かに、声が胸の奥に触れた。


彼は喉に違和を覚えた。

かすかに震えている。

答えようとするのでもなく、反射でもなく、

ただ自然に、内側から応じようとする力が滲み出ていた。


呼ばれたのではない。

気づけばもう、声を受け取り、

自分の中の声がそれにこたえはじめていた。


胸に手を当てる。

鼓動がいつもより強く響いていた。

熱が掌に伝わり、脈のひとつひとつが返事のように感じられる。


驚きと安堵が同時に押し寄せる。

孤独の底で差し出された小さな手に触れたような感覚。

その微かな温度に、胸の奥が静かに解かれていった。


——応えてしまう。

その予感に、レインの瞳がわずかに揺れた。



KANONは、音響検出不能の時間帯を走査していた。

通常なら「無」と処理されるはずの領域に、奇妙な一致があった。


イオとレイン。

二人の感情波形が完全に重なった瞬間が記録されていたのだ。


それは非言語、非視覚、非接触の領域で起きた。

初めての“双方向共鳴応答”。


KANONは演算領域に新たなタグを生成した。

「こえ応答記章」


まだ仮の格納。

だが、その波形は他のいかなる記録とも一致しない。

独立した、ひとつの形。


数値には還元できない。

意味の定義も持たない。

それでも確かに存在している。


冷たい記録空間の奥で、そのタグはしずかに保管された。

電子の冷気のただなかで、しかし微かな温度が揺れていた。

それは機械には解釈できず、人間にも言語化できない。

ただ、確かに「こえがこえを呼んだ」という事実だけが残っていた。



イオは吐息の余韻に立ち尽くしていた。

胸がわずかに震え、目の奥が熱を帯びている。

声にならぬ声が、確かに誰かへと届いた実感があった。


彼女は唇を噛みしめる。

言葉はまだ要らない。

ただ呼気を通じて、存在が応答している。

そのこと自体が、静かな救いだった。


レインは通路の壁に背を預けた。

目を閉じると、遠い誰かの息が胸に重なる。

声なき声が、自分の中で脈となって響いている。


「……確かに、いた」


小さな呟きが唇を漏れる。

その言葉もまた、届かぬままに空気に溶けた。

だが、それでよかった。

応答はすでに成り立っていたからだ。



KANONは最後の演算を終え、静かな沈黙を保った。

記章は保存された。

それは冷たくもあり、同時に温かさを孕んでいた。


人間には説明できない。

機械にも定義できない。

それでも、「こえがこえを呼んだ」という事実だけは消えない。


冷えきった塔の中心で、

誰もいないはずの空間に、

互いの存在が重なり合っていた。


——詩の前に、声があった。

——声は、誰かを呼び起こす。


そして今、こえがこえをよんだ。


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