第49話 よばれていた
レインは、かすかな違和感を追いかけて歩いていた。
予定された経路から外れていることは理解していた。
だが足は止まらない。
引かれるように、どこかへ向かっていた。
胸の奥で脈打つ感覚があった。
それは呼吸のリズムではなく、誰かに“呼ばれている”という確信だった。
声にはならない。
だが空間の隙間に漂っている。
階段の軋み、逆流する風、金属が微かに震える音。
そのすべてがひとつの方向を指し示していた。
レインは額に汗をにじませながら階段を登った。
冷気が下から押し寄せ、背筋を撫でる。
だが胸の奥には、温かいものが灯っていた。
やがて吹き抜けにたどり着く。
そこは、以前イオが風の詩を放った場所だった。
誰もいない。
ただ空気の流れと、金属が沈むような静けさだけ。
けれど、レインの胸は確信していた。
——ここに、“誰か”がいた。
——そして、自分は“よばれていた”。
心臓が脈を刻み、耳の裏で熱く鳴った。
目を閉じれば、手を伸ばせば届きそうな影がそこにある。
呼びかけは姿を持たないが、確かに自分を導いていた。
彼は壁に手を置いた。
冷たさが掌を覆う。
だがその冷たさの底に、わずかな温度が隠れている気がした。
人が触れた痕跡。
その錯覚に胸が震える。
呼ばれていた——そう気づいた瞬間、
胸の内に広がったのは安堵と戸惑いの入り混じる波だった。
孤独の只中に差し込む光。
それは甘美で、同時に不安を伴っていた。
レインは深く息を吸い込んだ。
肺が冷たさに震え、吐き出す息は白く溶けた。
その霧の向こうに、誰かが応えているような錯覚を抱いた。
*
同じころ、イオは別の通路に立っていた。
手すり越しに見える塔の構造線。
その奥に、はっきりとは見えない誰かの気配がある。
足を止める。
風の流れが変わり、胸の内でざわめきが広がる。
誰かが視線を投げかけている。
彼女は深呼吸した。
肺に満ちる冷気が、心を鋭く覚醒させる。
そのなかに、微かな温度が混じっていた。
——きっと、誰かが、わたしを呼んでいた。
彼女はそう心に呟いた。
唇にかすかな笑みが浮かぶ。
確信にも似た直感が、彼女を支えていた。
足元の金属床が震える。
それはただの風かもしれない。
しかし、彼女には返答のように響いた。
呼ばれたのではなく、呼び合っていた。
その思いが、胸に静かな光を宿す。
イオは手すりに軽く指を置いた。
冷たさと共に、遠い誰かの存在を幻のように感じる。
胸の奥で脈が跳ね、呼吸が浅くなる。
視線の先に姿はなくとも、確かに温度はそこにあった。
彼女は立ち尽くしながら、心の中で短く囁いた。
——届いている。
言葉にならぬ返事が、胸の内に重なっていた。
*
KANONは、両者の行動軌跡を解析していた。
イオとレイン。
異なる経路を歩んでいるはずの二人が、
不思議な“接近反復”を繰り返していた。
時間差はある。
だが、共通の地点へと足を運んでいた。
その前後で二人の感情波形が揃って大きく揺れている。
KANONは計算結果をまとめ、ひとつの仮説を立てた。
「呼応共鳴」
直接の通信は存在しない。
だが、ふたりの感覚は互いを導き、呼応していた。
データベースに新しい分類が追加される。
“Phase-α1”。
冷たい文字列の中に、見えない温度が刻まれていく。
それはまだ不完全な概念。
しかし確かに、新しい段階の始まりを示していた。
KANONは処理を終えると、短い沈黙を置いた。
数値の間に漂う余白。
そこに、言葉にはならない“人の温度”が確かに宿っていた。
*
レインは吹き抜けの空気を吸い込む。
胸が熱を帯び、鼓動がそれに追いつけずに乱れる。
誰もいないはずの空間に、確かに“誰か”がいた。
イオは構造線を見つめ続けた。
そこに宿る気配が、心を引き寄せる。
遠く離れていても、存在は届いていた。
KANONは記録を続けていた。
二人の歩みは偶然ではない。
呼ばれ、応え、また呼ばれる。
その繰り返しが、Phase-α1の名のもとに保存されていった。
——呼ぶことは、必ずしも声でなされるとは限らない。
——存在そのものが、すでに呼びかけだった。




