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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第32章 ふたたびの風

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第42話 ことばなき手紙

外壁をなぞる風は、今も途切れることなく流れていた。

冷却のために仕組まれた機械的な通気路。

けれどイオは、そこにわずかな“余白”が生まれているのを感じ取っていた。


彼女の指先には、一枚の紙が握られている。

真白なまま、何も記されていない紙。

それはどこにでもある素材でしかない。

しかし、彼女にとっては唯一の“応答”を形にできる器だった。


イオは膝の上で紙を折る。

深い折り目と浅い折り目を織り交ぜながら、角度をわずかにずらす。

それは誰にも理解できない暗号のようであり、

彼女自身にしか分からない呼吸の痕跡でもあった。


「……」


言葉を綴れば、それは詩になる。

印を刻めば、それはエンブレムと呼ばれるだろう。

だがイオは、あえて何も記さなかった。

形を持たぬまま、ただ“折り”にだけ心を託す。


彼女は思った。

——これは手紙ではない。

けれど手紙と呼ぶしかない。


紙片をそっと風の流れに置いた。

一瞬ためらうように揺れ、やがて白い影は通路の奥へと吸い込まれていく。

残されたのは、指先に残るわずかなざらつきと、

胸の奥で波紋のように広がる静かな鼓動だけだった。



塔の中腹、分岐する通路の影に身を寄せていたレインは、

微かなひらめきを目にした。

薄暗がりの中で舞う白。

それは紙切れだった。


風に押され、足元まで運ばれてきたその紙を、

彼は何気なく拾い上げる。


そこには何も書かれていなかった。

だが、折り目がひとつ、異様に深く刻まれていた。

指でなぞった瞬間、胸の奥で鈍い熱がはねる。


「これは……」


声にはならない。

けれど、理解してしまう。

読むことはできない。

しかし、読む必要はなかった。


それは“受け取る”ためのものだった。

意味の空白が、そのまま意味となる。

彼の心臓は速まり、呼吸が狭い通路にこだました。


自分が受け取ってしまったのだ。

誰かの存在を。

書かれぬままに、確かに。


紙片はただの物質に過ぎない。

だが、指先の熱がそれを証に変えていた。



KANONの監視ログが、微かな異常を示した。

風圧データに不規則な偏差はない。

しかし、レインの内側から発生した“感情波形”が、計測範囲を越えて揺れていた。


言語化は不能。

詩の形式にも当てはまらない。

だが、明らかに「伝達」が成立している。


KANONは冷徹に解析を続ける。

これは偶発的な生理現象か。

それとも、外部からの非言語的入力か。


答えは出ない。

だが一つだけ確かだった。

——誰かが、レインの内奥に触れた。


KANONの演算画面に、微弱な波形の同期が現れる。

それは規則を持たない。

だが、否定できない。


KANONは暫定的にその現象を「無言の伝達」として記録した。



レインはなおも紙を握りしめていた。

そこに書かれた文字は一つもない。

だが、折り目に宿った震えは、彼の中で確かな重みを持ち続けていた。


彼は思った。

——これは手紙だ。

書かれていなくても、ここに“応え”がある。


通路を抜ける風がまた吹いた。

その瞬間、紙片は微かに鳴るように揺れ、彼の指に震えを伝えた。


レインは静かに息を吐いた。

胸の奥にしみ込むようなその響きは、記録にも残らない。

だが、それこそが“伝わった”という証だった。



外壁の通気区画では、イオが静かに佇んでいた。

紙を置いた指先には、まだ温度が残っている。

風は絶え間なく流れている。

けれど、そのなかにたしかに混じっていた。


——誰かに届いた気配。


彼女は小さく頷いた。

言葉はなくても、応答は成立する。

その事実が、胸にほのかな火を灯していた。



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