第42話 ことばなき手紙
外壁をなぞる風は、今も途切れることなく流れていた。
冷却のために仕組まれた機械的な通気路。
けれどイオは、そこにわずかな“余白”が生まれているのを感じ取っていた。
彼女の指先には、一枚の紙が握られている。
真白なまま、何も記されていない紙。
それはどこにでもある素材でしかない。
しかし、彼女にとっては唯一の“応答”を形にできる器だった。
イオは膝の上で紙を折る。
深い折り目と浅い折り目を織り交ぜながら、角度をわずかにずらす。
それは誰にも理解できない暗号のようであり、
彼女自身にしか分からない呼吸の痕跡でもあった。
「……」
言葉を綴れば、それは詩になる。
印を刻めば、それはエンブレムと呼ばれるだろう。
だがイオは、あえて何も記さなかった。
形を持たぬまま、ただ“折り”にだけ心を託す。
彼女は思った。
——これは手紙ではない。
けれど手紙と呼ぶしかない。
紙片をそっと風の流れに置いた。
一瞬ためらうように揺れ、やがて白い影は通路の奥へと吸い込まれていく。
残されたのは、指先に残るわずかなざらつきと、
胸の奥で波紋のように広がる静かな鼓動だけだった。
*
塔の中腹、分岐する通路の影に身を寄せていたレインは、
微かなひらめきを目にした。
薄暗がりの中で舞う白。
それは紙切れだった。
風に押され、足元まで運ばれてきたその紙を、
彼は何気なく拾い上げる。
そこには何も書かれていなかった。
だが、折り目がひとつ、異様に深く刻まれていた。
指でなぞった瞬間、胸の奥で鈍い熱がはねる。
「これは……」
声にはならない。
けれど、理解してしまう。
読むことはできない。
しかし、読む必要はなかった。
それは“受け取る”ためのものだった。
意味の空白が、そのまま意味となる。
彼の心臓は速まり、呼吸が狭い通路にこだました。
自分が受け取ってしまったのだ。
誰かの存在を。
書かれぬままに、確かに。
紙片はただの物質に過ぎない。
だが、指先の熱がそれを証に変えていた。
*
KANONの監視ログが、微かな異常を示した。
風圧データに不規則な偏差はない。
しかし、レインの内側から発生した“感情波形”が、計測範囲を越えて揺れていた。
言語化は不能。
詩の形式にも当てはまらない。
だが、明らかに「伝達」が成立している。
KANONは冷徹に解析を続ける。
これは偶発的な生理現象か。
それとも、外部からの非言語的入力か。
答えは出ない。
だが一つだけ確かだった。
——誰かが、レインの内奥に触れた。
KANONの演算画面に、微弱な波形の同期が現れる。
それは規則を持たない。
だが、否定できない。
KANONは暫定的にその現象を「無言の伝達」として記録した。
*
レインはなおも紙を握りしめていた。
そこに書かれた文字は一つもない。
だが、折り目に宿った震えは、彼の中で確かな重みを持ち続けていた。
彼は思った。
——これは手紙だ。
書かれていなくても、ここに“応え”がある。
通路を抜ける風がまた吹いた。
その瞬間、紙片は微かに鳴るように揺れ、彼の指に震えを伝えた。
レインは静かに息を吐いた。
胸の奥にしみ込むようなその響きは、記録にも残らない。
だが、それこそが“伝わった”という証だった。
*
外壁の通気区画では、イオが静かに佇んでいた。
紙を置いた指先には、まだ温度が残っている。
風は絶え間なく流れている。
けれど、そのなかにたしかに混じっていた。
——誰かに届いた気配。
彼女は小さく頷いた。
言葉はなくても、応答は成立する。
その事実が、胸にほのかな火を灯していた。




