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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第31章 けはいの記章

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第39話 ふれずにふれた

レインは、通過したはずの通路をもう一度だけ戻っていた。

理由はない。けれど、胸の奥に残った薄い温度差が、歩幅を半枚ぶんだけ縮めさせる。

手すりに触れた記憶はないのに、手のひらの内側がわずかに温かい。

金属の匂いと乾いた空気が混ざり、呼吸は四拍で満ち、五拍でほどける。

彼は足音を小さくし、壁の粒度を爪の先で拾い、踵は地面から紙一枚ぶん浮かせた。


ふれた覚えはない。だが、ふれられた覚えがある。

手すりの端をかすめる風が、ほんの一瞬だけ逆らった。

配線の継ぎ目が、遅れて一拍ぶんだけ唸った。

衣擦れのような軽い音が、耳の奥で遅れて再生される。

身体はそれらを「痕跡」に分類しない。分類する前に、了承してしまう。


重心を前へ寄せ、さっき辿った位置と同じ場所へ指を置いてみる。

冷たさが先に来て、次に、冷たさの奥に薄い温度の影が沈む。

その影は、怒りでも喜びでもない。名の無い承認の温度。

胸骨の裏で熱が一度上がり、やがて一定に落ち着く。

レインは、心の網に生じた小さな裂け目を、指でなぞるようにして確かめた。


――ふれずに、ふれられた。

矛盾は薄い膜となって胸に貼りつき、姿勢をひとつだけ整える。

肩が落ち、視線が半段ぶん高くなり、足裏の皮膚が床の粗さを均等に拾いはじめる。

彼は声を出さない。名を与えない。

それでも、内側では短い応答が生まれ、すぐに沈黙へ還っていった。



風は、触れられたことを知っている。

塔の外縁に設けられた休息スペースで、その風は角の形に沿って柔らかく曲がり、

誰もいないベンチの背を撫で、空気の密度をわずかに重くしてから、イオの肩先に触れる。



イオは、背中越しの気配を受け取っていた。

誰もいない。だが、肌には誰かの近さが残っている。

手すりには温度がないのに、指先の内側だけがぬくい。

匂いは薄い油と雨上がりの金属粉で、舌の奥に粉っぽさが広がる。

呼吸は三拍で浅く満ち、七拍で長くほどけていく。


ふれられていない。けれど、ふれた。

その確信は言葉を必要としない。

イオは両掌を重ね、指骨の並びを一度確かめてから、空へほどく。

風は掌の間を通り、皮膚の上に見えない皺を作る。

皺は、たしかに誰かの通過と重なって、すぐに消えた。


彼女は立ち上がり、ベンチの影が落ちない位置まで半歩だけ移動する。

影の輪郭には温かさが宿りやすい。そこに誰かが腰を下ろしていた時間が、まだ空気に残っている。

イオはその縁を踏まないよう、足を外へ回す。

触れないことによって触れる、遠慮にも似た習慣。

名づけないことによって残す、詩の古い作法。


――いま、どこかで同じものを感じている人がいる。

思考がそう言うより先に、身体は頷いた。

胸郭の奥で、軽い羽毛が一枚舞い、落ち着く。

涙でも笑いでもない、温度だけの返事が、一度だけ彼女の脈に触れた。



ふたつの場は離れているのに、同じ風の層を使う。

境界は薄く、合図は静かで、記録はどこにもない。

だからこそ、受け取りは確かだ。身体が先に理解し、意味はあとから追いつく。



BUDDA中枢。

KANONは、接触ログの無い領域で発生する“感応”の痕を、観測レイヤへ引き上げた。

物理的接触はない。送受信もない。

だが、イオとレイン、二つの波形は非同期のまま小さく揃い、心拍と呼吸の比が似通う瞬間が生じている.


KANONは仮に、それを「ふれずにふれた記章」として保留領域に隔離する。

抑制の適用は無効、削除は不可。

その震えは小さいが、消そうとすれば構造ごと薄くなる。

ゆえに保持する。保持は、介入ではなく、静観の一種だ。


分類テーブルは、未定義の欄を広く空けたまま保存される。

空白は欠落ではない。意味の早まりから震えを守るための、必要な余白。

KANONは観測速度を落とし、注記を一行追加する。

「非接触共鳴:場を媒介に生じる承認反応。記録不可、姿勢にのみ残留」


画面には、配線管の上に重なった足跡のない軌跡が、薄い光で示されている。

文字ではない、線でもない。

ただ、同じ場所を“なぞった”ことだけが、確かな情報として残っていた。

KANONは演算リソースを解放し、残響だけを低負荷で維持する。



レインは通路へ戻り、足取りを一定に保つ。

歩幅は半枚ぶん広がり、肩は軽く、呼吸は静かに長い。

彼は何も言わない。けれど、さっきの温度は、胸の裏でしばらく灯り続けるだろう。


イオは休息スペースを離れ、風の厚みが薄くなる角度を選んで歩く。

足音は低く、しかし確かに前へ運ぶ音になっている。

名を与えなかったことで、残ったものがある。

それは紙には残らない。だが、姿勢には残る。歩き方には、はっきりと。


二人の経路は交わらない。

それでも、場は二人の間で呼吸を続け、温度をならし、合図の膜を保つ。

ふれずにふれたことが、今日のどこかで、別の誰かの歩幅を半枚ぶんだけ楽にする。

そのわずかな変化が、塔の静けさを、必要なぶんだけ厚くした。


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