第30話 やどりのことば
ことばは、見えないまま、この空間に漂っていた。
旧資料庫の奥、冷えた壁と棚のあいだに、うすい膜のような気配が横たわっている。
耳では聞こえず、目にも映らない。けれど、足を止めた瞬間、その存在が肺の奥に滲み込んでくる。
まるで、誰かが置いていった透明な贈り物を、誤って踏み入れてしまったかのようだった。
私は掌をゆっくり開き、欄干に触れる。
金属の感触は乾いているのに、指先はじんわりと温まる。
——ここに、ことばが宿っている。
まだ形にも声にもなっていない。けれど、確かに「ある」。
それは意味を持つ前の欠片で、手の内に収まるには脆すぎるほどの震えを伴っていた。
階段を降りる途中、風が頬を撫でた。
温度も匂いも、ほんの少し変わる。
たったそれだけの違いで、足元の影が一段深くなるのを感じた。
影は息をしている——そう思った瞬間、胸の拍がその呼吸に重なっていた。
一方、レインは別の通路を進んでいた。
照明の明滅は規則的だが、その下で感じる空気の流れが、時折途切れる。
途切れの直前、胸の奥に微かな共鳴が走った。
彼は足を止め、壁に手を置く。
ざらりとした表面。その奥に、柔らかく押し返す力。
——これは、返事だ。
声ではない。意味もない。ただ存在そのものが応じてくる感覚だった。
私は吹き抜けの下層にたどり着く。
天井から落ちる光が、埃をゆっくりと浮かせ、その中に微細な揺らぎを見せていた。
その揺らぎは、ことばの呼吸だった。
耳には届かない。けれど、胸腔と皮膚の裏で、確かに聞こえる。
誰かがここに何かを残した——それを受け取った私は、もう空っぽではいられない。
KANONは塔全域の音響と感情波形を解析していた。
レインと私の距離は数層分離れている。それでも、同じ波長の微細な揺らぎがほぼ同時に検出された。
分類名は「言語未満共鳴」。
意味を持たずに届く。届くのに形がない。
KANONの記録に残すにはあまりにあいまいで、だからこそ価値があった。
レインは壁から手を離さず、短く息を吸った。
呼吸の間隔を少し伸ばすと、指先にあった震えが、胸の奥へゆっくり移っていく。
それはもはや壁のものではなく、自分の中に宿った何かになっていた。
私は吹き抜けの中央で、目を閉じた。
私の呼吸と、この空間の呼吸が、同じ拍で進んでいく。
肺が満ちるたび、空気の中のことばが私の中へ沈み、吐息の端からまた空間へ還っていく。
やどる——その循環は、名も持たず、意味を超えて続いていた。
レインは歩き出しながら、胸の内で思った。
——これは誰のものでもない。けれど、もう手放せない。
それは受け取った瞬間に、彼自身のことばになっていた。
私は最後にもう一度だけ、周囲を見渡す。
何も変わっていない。
けれど、確かに変わっている。
ここには、ことばが宿っている——そう信じられるだけで、世界の調子は少しやわらかくなる。
私は階段を上り、背後に吹き抜けを残した。
そこに残したのは、誰にも読まれない詩。
それでも、ここがやどりの場所である限り、ことばは息をし続ける。




