第26話 とどまる声
──空気が、何かを覚えている気がした。
イオは、塔の下層へと続く階段をゆっくりと降りていく。
冷気が肌を刺す。すでに空調は切られ、保管の意味を失った資料群は、湿気を帯びながら朽ちかけていた。
かつて「旧資料室」と呼ばれたその場所は、学術記録や未分類の言葉が山と積まれていた空間だった。
今では──誰も立ち入らない、“沈黙の箱”と化している。
けれどイオは、そこに足を踏み入れる。
探していたのは、“声”の残り香だった。
誰かが語り、届かずに消えたはずの言葉たち。
空気が震えた痕跡。吐息と詩がすれ違ったあの瞬間。
音はもう残っていない。それでも空気の重なりには、まだ“何か”が残っている。
イオは、壁際の棚の隙間に目を留めた。
埃をかぶった紙の束の奥に──一枚の封筒が、ひっそりと落ちていた。
拾い上げると、中は空だった。
何も書かれていない。紙片もない。
それでも、イオの指先は“確信”した。
これは、たしかに「何かを入れていた」封筒だと。
微かに折れた線。指先で触れると、ふわりと“重さ”がよみがえる。
その空虚さそのものが、「かつてあったこと」を物語っている。
イオは、そっと封筒の内側に指を添えた。
ペンは使わない。声も出さない。
ただ、指の腹で紙をなぞる。圧をかける。言葉にならない圧痕が、静かに紙に染み込んでいく。
──これは、詩だ。
意味ではない。
音でもない。
記録にも残らない。
けれど、それでも、たしかに“ことば”だった。
この空間にしか宿せない詩。
残響なき場所にこそ、とどまる可能性がある詩。
イオは、しばらくその封筒を手にしたまま、じっと空気のゆらぎに耳を澄ませていた。
そして、静かに棚の奥へと戻す。
今度は、彼女の“触れた痕跡”を帯びて。
その頃、レインは塔の下層へ向かう途中だった。
資料庫での確認作業を終え、昇降機のない階段を下りていた時、ふと──立ち止まった。
(……今、何か……)
誰かが呼んだのではない。
けれど、確かに“聞こえた”。
壁の奥。空気の奥。
声なき“手触り”が、彼の背筋を撫でていく。
彼は足を止め、静かに目を閉じる。
風はない。音もない。
だが──何かが「そこにあった」と訴えかけてくる。
封筒。紙。擦れた指先。
誰かの痕跡。詩の気配。
それは情報でも記録でもなかった。
だが、心のどこかが反応していた。
(……“言葉”……なのか?)
思考ではなく、感応のように。
レインの中に、静かに“ことば”が宿りかけていた。




